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第三回:桶狭間の合戦


武蔵守殿の説

義元の尾張攻撃理由 :上洛説

今川義元という人物は非常に京への憧れが強い武将であり、彼の居城府中は小京都とよばれるほどだった。さらに自身の家格に対し強烈なまでの誇りをもっていたようである。京への憧れ、家格への誇りに加え周囲に今川を脅かす脅威がなくなれば当然、上洛を考えたであろうと思われる。三河確保説については、三河でもっとも大きな力をもっていた松平党を完全に抑えていたわけだし、他は強い者になびく日より見の国人領主だけだから今川に逆らうわけも無し、すでに三河は確保していたと思われる。 尾張奪取説については当時尾張東部一帯はすでに今川氏の勢力圏であったし、尾張奪取を目的とするならば威圧と調略を中心とした戦略となるはずで一説には45000とも言われる軍勢を動かす理由もない。よって上洛説がもっとも妥当であると考える。

桶狭間における信長の攻撃方法 :分断しての各個撃破戦法

この桶狭間の戦い後の論功行賞において、勲功第一とされたのが、義元本隊の場所を知らせた簗田政綱であった。ただ場所を知らせただけで勲功第一とはいくら情報が大事といってもおかしいと思う。思うに簗田の任務は信長の仕掛けた情報戦の実施面での責任者という役割だったと思われるから、その今川軍に対して行われた情報戦の成功が評価されたのだろう。 前線の今川軍に信長本隊の動きを悟られないようにし、前線の情報が義元本隊に届くのを妨害し、義元本隊の位置を探る。そうした上で今川軍の前線と本隊の連絡を一時的に分断し、そのわずかな時を見計らって義元本隊に突撃し各個撃破を図る。これらを可能としたのは簗田の功績であったと思う。 だがそれでも奇襲は不可能であったと考える。いくら勝ち戦だと思って慢心していたとはいえ、義元は斥候を放って周囲の情報を収集した であろうし、窪地に陣を張るという愚かな真似はしようはずもない。一説におけはざま山という小高い丘に陣を張ったとあるがそれが正しいと思う。よって奇襲は不可能であるという結論に行きつく。 信長本隊の動きは義元本隊に近づくにつれ斥候によって探知されていたであろう。だがこの情報は簗田の部隊によって妨害されるか足止めされるかしたのではなかろうか。そして信長来襲の知らせを受けたとき、態勢を整える前に突撃を受けたか、態勢を整えることが出来、地の利を生かし迎撃したが、防衛意識から士気が異常に高まっていた信長軍の勢いに抗し切れなかったかのどちらかではなかろうか。信長軍は敵の首をとることを禁止し、ひたすら義元の首ただ一つだけをねらっていたのだから。 このような考察から、桶狭間の戦いにおける信長の戦術は、情報において優位にたち、大軍の盲点をついた分断しての各個撃破戦法であったと考える。

★なるほど、一見すると奇襲に見えるが、その実は奇襲ではなく高度な情報戦の末の各個撃破だったというわけですね。これができたのも、信長の高い軍略家としての才能の賜物でしょうか。(あまちゃん@管理人)

Dai壱殿の説

義元の尾張攻撃理由:尾張奪取説

これは難しい問題です。義元自身どう思っていたのでしょう? 表向きは上洛という宣伝文句を使い 内実は尾張平定にあったのではないでしょうか? 義元自身が2万5千の兵を率いての進軍ですから わざわざ尾張半国の信長を倒しに来たではカッコが付きませんから「上洛途中に槍先に懸けてやったわ!」っとでも言うつもりだったのでしょう!? しかし、信長を倒しても つづく美濃には斎藤が 近江には浅井・六角が控えております。都にしても三好・松永等がテグスネ引いて待っていることでしょう。いくら将軍家の一門だからといっても そう易々とは上洛は無理でしょうね。仮に信長を倒したとしても暫くは尾張の治安維持に時間を費やしたと思われます。

桶狭間における信長の攻撃方法 :正面奇襲説

僕としては牛一の『信長公記』を信頼したい! 以前彼の地を散策した事があるのですが 現在では何ら手がかりも見つけることが出来ない程、近代化が進んでいます。濃尾平野には珍しい程の大小様々な山々が連なり特有な地形であったなどとは想像がつきません。 ですから 何の根拠もありませんが 牛一の言うように正面からの攻撃ではありますが、それは奇襲であった!っと考えるほか無いのでは・・・・  今川軍の分散化には成功している信長ですが、義元本軍には5千程の軍勢がいたと思われ、その大軍をたかだか2千余の 軍勢で打ち破るのは至難の業です。当時の特有な地形を利用し、不意に義元軍の前面に突撃したのではないでしょうか。

★こちらは奇襲説です。確かに、桶狭間が特有な地形であったならば、奇襲も成功したかもしれませんね。(あまちゃん@管理人)

総括

みなさま、ご投稿ありがとうございました。寄せられたご意見をまとめますと、義元の尾張攻撃理由は上洛説、尾張奪取説に真っ二つに割れてしまいました。確かに、尾張を支配下におくためだけに進撃したならば軍勢が多すぎる気がします。しかし、上洛するためならば、もう少し調略等をする必要があったようにも思えます。実際のところははっきりとは分かりませんが、東海地方では無敵だったのですから、とりあえず尾張、多分すぐに終わるだろうから、次に徐々に上洛。という方針で進撃したのではないでしょうか。桶狭間における信長の攻撃方法も、情報戦による各個撃破説と、地形を利用した奇襲説に分かれました。しかし、攻撃方法そのものの意見こそ違えど、今川軍の部隊を分散させて本体のみを狙うという点で二つの意見が共通していました。どうやら、こちらの方は信長軍全軍で今川軍本体を攻撃したということになりそうです。(あまちゃん@管理人)



概要
永禄3年(1560)尾張に侵入してきた今川義元と、当時尾張を治めていた織田信長とが桶狭間(田楽狭間)にて戦った合戦。

事件後の経過
合戦は織田信長が勝利し、今川義元は戦死。その後、今川家は急激に衰退する一方、織田信長は急速に台頭する。

討議内容
桶狭間の合戦は、従来今川義元が上洛を目指して尾張を通過したところ、織田信長が奇襲によって、この義元の野望を砕いたというのが定説であった。しかし、この合戦には2つの不可解な点がある。1つは義元が本当に上洛を目指していたかという点。もう1つは、信長は本当に奇襲によって義元の大軍を撃ち破ったのかという点である。
前者については、通説であるいわゆる『上洛説』、三河を完全掌握するための『三河確保説』、尾張を奪取するための『尾張奪取説』などがある。
『上洛説』に関しては、定説ということ以外には根拠があまりない。しかも、上洛するための根回しがない、史料にはっきりと書かれていないといった点を考えると、少しこの『上洛説』は疑問となってしまう。
すると浮上してくるのは、『三河確保説』『尾張奪取説』である。『三河確保説』は、永禄3年に三河守に任官され三河を完全掌握する名目ができたという根拠。『尾張奪取説』は、合戦以前まで、信長をじりじり追いつめており、2万5千の大軍を持ってとどめを刺そうとした、また、松平元康に命じて多くの兵糧を大高城に輸送させているという根拠がある。
しかし、どの説も根拠にそれほどの信憑性がなく、史料に裏付けられていないという点が不安定要素である。
後者に関しては、小瀬甫庵著『信長記』が根拠となり、今まで通説であった『迂回攻撃説』と、太田牛一著『信長公記』が根拠となり、現在有力となりつつある『正面攻撃説』とがある。
『迂回攻撃説』というのは、信長がいわゆる奇襲攻撃を仕掛けたもので、江戸時代に甫庵が『信長記』を記して以来、ずっと定説となっているものである。しかし、著者の甫庵が江戸時代の人物である点から、ある程度の脚色が加わっているのではないかということが、現在論議の対象となっている。 一方、『正面攻撃説』というのは、信長の家臣として実際に桶狭間の合戦当時も仕えていた、牛一が根拠となる『信長公記』を記しているため、現在信憑性が高い史料とされている。この『信長公記』に記されているように、桶狭間の合戦の部分を読み解くと、『正面攻撃説』となるのである。

今回は、@義元の尾張攻撃理由と、A桶狭間における信長の攻撃方法について討議してください。(あまり私の意見は参考にしないでください。信憑性が薄いので・・・)

桶狭間略図
桶狭間の合戦・信長の進軍略図

桶狭間の謎


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