遠州森の石松


isimatu 石松はアウトローである。
飲兵衛で、喧嘩っ早く、そしてなにより馬鹿である。
だから、ほんとうは町のシンボルとして、あんまりふさわしくない。
しかしながら、「森」とくれば「石松」と返ってくるほど有名である。
発明王もいた、しかし彼ほどではない。
「江戸っ子だってねえ、寿司喰いねえ。」寿司をみれば無意識に
このセリフが口に出るほど日本人の脳味噌に焼き付いている。
しかし、有名にしてしまったのは、何を隠そう私の祖父が一役 買っている。
そして、孫である私が、悲しいかなインターネットという
現代文明の象徴みたいなメディアに彼を引っ張り出してしまった。



このページを書き終えた瞬間くしゃみが3発出た。そのあと「ルル」三錠は
飲まなかったが、草葉の陰で、「じい様」が嘆いていると悟った。

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「正伝清水次郎長」を執筆した森町出身の村松梢風が「石松略伝」を
昭和23年刊行の小冊子「森の石松」に寄稿しているので、ここに
全文を掲載している。
なお読みにくい語にはふりがなを括弧内に示し、漢字も一部旧字体より
新字体に改めたものもある。

森の石松略伝

村松 梢風

 旧幕の頃、秋葉街道に名高い遠州の森に、五郎と云ふ侠客があった。森の五郎と呼ばれ、遠近に侠名を馳せた。
 ひととせ、森町の天宮神社の祭典の折に、境内に一人の迷ひ子が現はれた。年は七、八つの頑是(がんぜ)なさ。何処から来たかと問へば、只指さして「あっち」と答へる。名を問へば「石松」と答へた。
 神社の付近の人々が憐れんで食物など与へてゐる処へ来合せた五郎であった。事情を聞いて五郎がこの迷ひ子の石松を引き取って育てることになったのである。
 石松の親は木挽であるとも、又炭焼きであるとも云ひ、名も生国も明らかではないが、妻は夙(はや)く喪(うし)なひ、やもめ暮しで、一人児の石松を連れて他国から入り込んで来て、森の奥辺りでさうした渡世を送るうち、不幸にも病のために世を去ったので、あはれ石松は孤児となって山間に取り残される運命となったのであった。併し乍ら、歳に似気なき大胆不敵の性格は其の頃より既に閃めき、足に任せて森の町に迷い出で、図らずも仁侠五郎の手に救ひ取られたのが、其の開運の創まりで、後世に「森の石松」の名を遺すまでに立ち至ったのである。
 石松は幼少より腕白を過ぎた乱暴者であった。しかも、生まれ付き怪力を具へ、十二、三歳になると、すでに大人と角力(すもう)を取っても負けなかった。元来山の中で育てられてゐるから木登りや走ることは猿(ましら)のごとく、敏捷眼を驚かすばかり。夙くも遊侠者流を学んで到る処で喧嘩をするが、嘗て一度も負けたことがない。然るに育ての親の五郎は、職業柄に似合はぬ温厚の人故、此の石松の乱暴をほとほと持て余した。
kan  其の頃、東海道清水港の侠客清水次郎長は、漸く売り出しの途上にあったが、ある時森の五郎の許に足を留め、審に石松の人と成りを観察して、大に未来を嘱望した。そこで、五郎に懇願して石松を貰い受けて我が手に引き取り、清水港へ連れ帰ったのであった。時は天保の末年頃で、石松十四、五歳であった。
 次郎長は師弟を養育することに大に努めた人であったが、石松は其の中の尤なる者であった。即ち一の乾児(こぶん)であった。石松は森を出身とするが故に森の石松と呼ばれた。
 石松は長ずるに及んで、膂力衆(りょりょくしゅう)に勝れ、且つ剣に長じ、平常酒を好み酔ひを買って喧嘩を事とした。清水一家、一人彼に当る者がなかったのみならず、次郎長に従って遠征をして各地の梟雄(きょうゆう)を屈伏せしめ、豪勇森の石松の名四方に震ふに至った。併し乍ら石松は資性極めて正直、単純で、正義を尚び、不義背徳を憎むこと蛇蝎の如く、情宜(じょうぎ)の為には命を軽んじ、横暴なる権力に反抗し、常に弱者の味方を似って任じた。当時の侠客社会にあっても稀なる理想的快男児であった。
 石松は非常に子供が好きで、よく近隣の児童を集めて菓子を買って与へた。石松が一度憤激して暴れ出すと、鬼神も当るべからざる勢ひであったが、子供を側へ連れて行けば忽ち鎮まったといふ一事を似ても、彼がいかに無邪気で、天真爛漫で、そして神の如く潔白であったかを想像するに難くないのである。
 されば次郎長石松を重んじたことは、他の儕輩(さいはい)の遠く及ぶ処でなかったとのことだ。爰に、石松の大恩人にして育ての親たる森の五郎は不慮の事から、人出にかかって横死を遂げたのであった。石松悲憤して、五郎の為に復讐せんことを誓った。次郎長また之を援け、八方捜索の結果、遂に五郎の仇人が甲府に在ることを探知し、清水一党大挙して之を甲府の長楽寺に襲ひ、首尾よく復讐を遂げたのであった。
 此の事より次郎長は、甲州の侠客黒駒勝蔵との間に隙を生じ、後十年に亘る我国侠客社会未曾有の大闘争の端を発したのであった。萬延元年、次郎長は四十一歳であった。石松は三十歳であったと云ふ。
 此の前、次郎長は尾州のほげたの久六と云ふ者を討ち取り、恩人の仇を報じたのであった。此の事について、日頃信仰する讃岐の金毘羅神社に祈願を掛けたのであるが、首尾よく目的を達したので、御礼詣りに赴くべきであるが、折悪しく自身は差し支えがあって行かれず、一の乾児石松をば代参に立てたのであった。其の時次郎長は、久六を斬った井上真改の一刀を石松に持たせて金毘羅宮へ奉納した。
 石松は首尾よく代参の役目を果し、帰途、江州草津の見請山鎌太郎なる侠客を訪ねると、鎌太郎は喜んで石松を厚遇し、数日滞在せしめた後、石松の出発に臨んで、先年名古屋で病歿した次郎長の妻のために香奠として金二十五両を石松に托して次郎長に贈った。
posta  石松は其の金を持って清水港をさして帰る途中、遠州中郡の都鳥吉兵衛なる者を訪ねたことが、彼の不運の因であった。吉兵衛は心善からぬ人間であったから、石松を欺き、鎌太郎より托されたる二十五両の金を横領した上、卑怯にも常吉、梅吉の兄弟三名共謀して遂に石松を殺したのである。
 此の委曲は次郎長の伝に詳しく、講談、浪曲等に作られて人口に膾炙(かいしゃ)する物語であるから、爰には省略するが、此の時石松は吉兵衛兄弟のために騙し討ちに遭ひ、満身に刀創を受けて猶且つ死せず、叢(くさむら)の中に潜れて一度び危地を脱することを得たにも係はらず、折りから通り掛かった兄弟より卑怯者と罵られ、憤激の餘り我を忘れ、わざわざ叢中(そうちゅう)より飛び出し三名を相手に奮闘して遂に乱刃の下に命を捨てたのであった。此の悲愴なる最後こそ、森の石松の真骨頂を最もよく発揮せるもので、遊侠伝中に奕奕(えきえき)たる異彩を放つ所以でもある。
 石松の遭難と、都鳥兄弟の不義を知った次郎長の憤りは譬へん方なく、必ず石松の仇を討つべしと誓った。吉兵衛兄弟は転々として次郎長の追窮から逃れてゐたが、文久元年正月十五日、反って清水に逆襲し来った兄弟を次郎長は東海道の追分で討ち果たして首尾よく本懐を遂げたのであった。
 次郎長は晩年に至る迄、談たまたま石松の事に及べば、流涕して、其の死を惜しむこと我が子の如くであったと云ふ。
 我が国の侠客は封建時代の産物である。そして石松の行路は素より学ぶべからざるものであるが、而も猶、正義仁侠を理想とした其の精神こそは日本魂(やまとだましい)の発顕であって、現代に伝へていささかも恥ぢないのである。世人が石松の伝を知って、其の短を棄てて長を採らば至倖(しこう)である。

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