私の事典


アポトーシス

横浜国立大学、佐倉統助教授と東京理科大学、田沼靖一教授の対談
(NHK教育TV放送、「未来潮流、生と死、遺伝子からのメッセージ」より)

 細胞の様子を観察していくと、自ら死を遂げる「アポトーシス(apoptosis)」という現象がみられる。
 田沼先生は、「死」という生命現象を遺伝子を通して研究してきて、1997年、世界に先駆けて、第三染色体にある「死の遺伝子」を発見し、生き物の細胞にはあらかじめ死がプログラムされていることを示した。

[田沼]「細胞が死ぬといっても、普通はただ単に崩壊して崩れていくというイメージを持つ人が多いけれども、実際は、きちんと遺伝子にプログラムされて、きちんとしたプロセスを通って細胞が死んでいくということが最近解ってきた。
 死に関してプログラムされているということは、死の遺伝子があるということです。その死の遺伝子が永い進化の歴史の中でずっと生き残って来たということから考えると、生き残るためにはそれが必要であったということです。
 どういうところに細胞の死というものが必要かと言うと、手や心臓などの形態の形作りが行われるときに、余分な細胞をけずって、彫刻のように浮き彫りにしてくる。そこに死が必要だったということです。 ですから、死がないとただ単なる細胞の塊になってしまう。ある特殊な個体の形を作るのに、すなわち、外側のボディーの形や内側の臓器の形を作れるのはアポトーシスが有るから特殊な構造が構築されてくる。
 古い遺伝子を確実に消去するには、体の中の細胞、特に再生しない細胞に死をプログラムをセットしておけば確実に死んでいくという事で、個体ごと遺伝子を消去する一番安全な方法と言えます。」

[佐倉]「次に遺伝子自体が存続していくために、元の古い有害な突然変異が溜まった可能性の高い遺伝子を個体ごと消去すると言う事ですね。」

[田沼]「死んで行くときには、いずれにおいても遺伝子を切断していくということから、死の本質というのは、遺伝子によって自らの遺伝子をきちんと消去していくということなのではないかと考えています。」

[佐倉]「遺伝子というのは『生物の設計図である』とか『料理でいうとレシピに相当するようなものだ』というような、一番おおもとの情報が書かれている所で、それを自ら無にしていくというメカニズムが生命には備わっているということですね。」

[田沼]「細胞の中に備わっている。しかも死の遺伝子がありますので、遺伝子として組み込まれているということです。」

[佐倉]「遺伝子同士の間で反乱はないのですか ? オレはもっと生きたいというような。」

[田沼]「特に、ガン細胞なんかは、決定機構のところ、実行機構のところを非常に強くおさえて、死なないように、死を忘れてしまったというのがガン細胞としてとらえていいと思うのです。」

[佐倉]「適切に死ねなくなったのがガン細胞ということですか。」

[田沼]「ですから、死の遺伝子がきちんと解れば、このガン細胞は死の遺伝子の何処を抑えているのかとか、欠損しているのかということが解れば、死の遺伝子を導入するというような新しいガンの遺伝子療法に死の遺伝子を使うことができる。」

[佐倉]「そうすると、今まで、遺伝子というのはただ自分のコピーを残すというようなイメージで語られてきたことも多いと思うんですけど、そんな単純なものではなくて、他の遺伝子とうまくチームを組みながら自分達がうまくできるように作っていったり、あるいは、自ら消していったりというようなことですね。」

[田沼]「細胞社会というような事が有りますけれど、やはり、遺伝子の社会というものがあって、ドーキンスが言っているように、『遺伝子は利己的で、自分の複製をどんどん増やす』と。『私たち生物というのは利己的遺伝子の乗り物だ』と言われていて、ある意味ではそうかもしれないんですけれど、実際よく見てみると、利己的だけでは遺伝子は存続できないと思うんです。やはり、利他的に自分自身で死んでいく、自死性、自分で死んでいくというものがない限り、この進化の歴史のなかを遺伝子は存続できなかったのではないか、死の遺伝子を持っていない生物というのは進化できずに閉じていく運命にあったのではないかと思うんです。死の遺伝子を持つことで、繁栄することが逆に可能になってきたのかとも考えられるのです。」

[佐倉]「ちょっとそこはよく解らないのですが、死の遺伝子を持っていないと繁栄できないというのは、要するに同じものがどんどん増えるということで、ガン細胞のようなものをイメージすればいいのですか?」

[田沼]「そうですね。周りの環境というものが変わってくるわけです。遺伝子がきちんとシャッフルされてそして遺伝子自身が次にどんな顔になるか、個体になるか、実際のところは解らないわけです。そういうのが遺伝子だと思うわけです。ですからいろんなバラエティーを作っておいて、そして環境が変わってもその中から生き残るものがあればいいと。ですから、たえず同じものを作っていたらその遺伝子は残れないわけです。で、そこに合わないものはきちんと消去していく。いろんなものを作っておいてそこに合わないものを消していく。消去法ができた生物が今生き残っていると考えられると思います。ですから、自死性、というか『自死的だ』ということが遺伝子の本質だと---。」

[佐倉]「自ら生き残ることができるのではなくて、むしろ自ら死ぬことができるというのが遺伝子の本質だと。」

[田沼]「百歩譲って、ドーキンスの『利己的遺伝子』というのを受け入れたとして、真に利己的であるためには、自死的でなければならないと思うんです。」

[佐倉]「自死的というのは、ある種非常に利他的なものであるわけですよね。ほかのものを生かすために、あるいは、次に出てくるものを生かすためにですね。そうすると、利己と利他というのは表裏一体なんですね。」

[田沼]「結局は生も死も遺伝子によって支配されている、というか、そういう遺伝子がありますから、遺伝子からみても同じものだということだと。」

[佐倉]「利己と利他だけではなくて、利己が生きる、利他が死ぬ、ということでいうと、生と死というのも表裏一体、区別がつかないというものなんですね。死があるから生があって、生があるからまた死が必要になってくるということがあるわけですね。」

[田沼]「死んだ細胞を蛍光顕微鏡で観ますと、宇宙の星の崩壊と生成というか、そういった感じが観られて非常に吸い込まれる感じで、やはりその、死がないと生はなりたたないと。ですから、生よりも先に死があったんではないかと。そういう思いがして。死から生をとらえなおしてみると、これまで見えなかった、生きていくことの意味というか、そういったものがはっきりとらえられるような感じがしました。」

[佐倉]「生よりも先に死があったかもしれないというのは、なんともこう、哲学的というか、意味が深いような感じがしますけども。」

[田沼]「細胞社会という個体の中でおこっている場合と、人間一つと人間社会をとっても同じだと思うんですけどね。新しい遺伝子を持った個体が移りすむというか、移っていくことが人間社会に意味があることだと思うんです。それはどういうことかと言うと、いろんな新しい文化とか芸術とか思想というものが、新しく遺伝子を持った個体が生まれてくるということによってですね、素地はそこにあるんではないかと思うんです。ですから人間が遺伝子として進化しているかどうかというのはわからないんですけど、文化、芸術、思想の面では確実に進化していると思うんです。ですから、そこに重要な意味があるというか、大切なところがあって、ですから、私たちは死というものを遺伝子としてプログラムされているわけです。そういうものをきちんと意識して、それを前提として、自由に生きるというか、それが大切なことだと。そういったことを死の遺伝子というものが語っているのかなという気がするんです。死があるから自分とは何かとかいったことをきちんととらえるというか、もし200年も300年も生きられるとしたら、自分というものがとらえられないというか、アイデンティティーがどこにあるんだろうかとか、何か生きていけないような気がするんです。死ねないという事は非常に恐ろしいことだと逆に思えるようになってきたんです。遺伝子自身、シャッフルして動いているということは、私自身はそれが進化しているという言い方ではなくて、常に変わっている、変譲していくという事で言っているんですけれども、ですから、そういうたえず変譲しているわけです。それは、簡単に言うと、遺伝子自身、夢を持って移って行くんじゃあないかと、その反映としての個体が私たちなので夢をどんな個体も自由に発現していくというか、現わしていくのが死の遺伝子からみた思いなんです。」

[佐倉]「遺伝子というのは生命が誕生してから40億年、考えてみれば、40億年間ずっとそういう夢をみることで生きてきて、遺伝子の夢と人間の持っている夢がうまく波長が合うといいんでしょうけど、今は何かちょっとちぐはぐなところがあるのかなという気がしますけどね。」

[田沼]「死の遺伝子が生きてきたからくりというのは、そこにあるんじゃあないかと----。」


ウイルス
ジェームス・トレフィル著、講談社ブルーバックス「科学101の未解決問題」より)

 ウイルスは、私たちが知っている中で最も複雑な非生物、あるいは最も単純な生物である。どちらを採用するかは、「生物」をどう定義するかによって変わってくる。
 ウイルスは、DNA分子、あるいはそれと近親関係にあるRNA分子が、タンパク質の殻の中に封入されたものである。ウイルスの外殻部分は非常に巧妙につくられているため、細胞は、ウイルスが自分のからだの一部であると勘違いしてしまう。ひとたびウイルスが細胞の中に入り込んで、その生物的な営みの中に組み込まれると、ウイルスは、その殻を脱ぎ捨て、さらに仲間のウイルスをつくり出すために、細胞の化学反応のしくみを乗っ取ってしまう。
 このプロセスは、細胞内にたくわえられていた資源がすべて使い尽くされ、細胞が死んでしまうまでつづく。その一方で、つくり出されたウイルスは、また別の細胞に侵入しつづけるのである。
 このように、ウイルスは、いわゆる生物とちがって単独で繁殖することはできないが、適当な細胞があればどんどん繁殖することができる。
 ウイルスのこのライフスタイルを考えてみると、ウイルスによる病気の治療がなぜこんなに難しいのかがわかってくる。バクテリアの侵入によって引き起こされる病気は、抗生物質の投与で克服することができる。たくさんの抗生物質がバクテリアの外側の細胞壁を構成する分子に付着することによって細胞壁の形成を妨害するのである。しかし、ウイルスには、細胞壁などというものがないし、ウイルスがとりついた細胞を殺す単純な薬は、周囲の健康な細胞も同じように殺してしまうだろう。
 ウイルスと戦うためには、細胞の化学反応のしくみに立ち入って考える必要があり、私たちは今ようやくその方法を学びつつあるのである。
 実際のところ、ウイルスに対する最高の防御手段は、からだの免疫システムを動員するワクチンである。ワクチンを開発することによって、私たちは世界中の天然痘を撲滅し、私たちの健康を脅かしていたポリオのようなウイルス性の病気を根絶することができた。しかし、エイズの広がりからわかることは、効果的なワクチンがないウイルス性の病気に対して、私たちはほとんど無力だということである。
 エイズが致命的な病気となっているのは、エイズウイルスのもつ二つの特徴による。すなわち、このウイルスは突然変異を起こす率が非常に高いということと、ウイルスどうしで核酸(DNAあるいはRNA)を交換する能力が高いということである。
 からだの中で細胞が分裂するとき、複製されたDNAに生じるまちがいは10億塩基対に対して一つ程度と、非常に高い精度を保っている。そして、そのためには、複雑な「校正」のしくみがはたらいているのである。それによって、複製されたDNAは、もとのDNAと同じものであることが保証されている。
 しかし、ウイルスでは、そのような「校正」のしくみは用意されていない。突然変異率の測定によると、たとえばエイズウイルスが一度DNAを複製するとき、2000塩基対に一つの割合で間違いが起こるようである。つまりウイルスは、細胞という形態をとる生物とくらべて、とんでもなく高い確率で突然変異を起こすのである。
 さらに、複数のウイルスが同じ細胞を攻撃すると、それらは核酸を少しずつ交換することによって、まったく新しい種のウイルスをつくり出すこともしている。
 この二つの効果がいっしょにはたらくことから、ヒトの免疫システムはたえず新しい種類のウイルスに直面しているのだということがわかるだろう。私たちは、毎年新しい型のインフルエンザウイルスに対する予防接種を受けなければならないが、それはウイルスが非常に速く変化しているからである。また、以前にはサルに限られていたウイルスが、急にヒトにも感染できるようになったりする理由もここにある。
 人々が広範囲に旅行するようになる以前は、特別に致死的なウイルスが小地域の人口を減少させたり、ひどい場合には根絶やしにしてしまうことさえあり得た(1995年にザイールで起こったエボラ出血熱を思い出してみればよい)。しかし、このような不幸な大惨事は、人類にとってある種の防波堤となるものでもあった。なぜなら、最後のウイルスが最後の宿主とともに息絶えてしまうからである。
 しかしながら、今日のように交通網が発達すると、私たちがまだその存在さえも知らないうちに、新しいウイルスが地球上の全大陸に広がってしまうというようなことが起こりうる。さらに、人間が原生林を切り開いて生活圏を拡大していくとき、私たちはそれ以前には接したこともないようなたくさんのウイルスと遭遇することになり、それらに新しい宿主(すなわち人間)をあたえてしまう可能性が高いのである。
 そのようなウイルスに対して、人間は即座に防御態勢をとる手段をじつはもっていない。たとえば、最初のエイズウイルスは、以前はサルしか罹らなかったウイルスの突然変異体だと考えられている。最初のきっかけは、一人の猟師が突然変異ウイルスをもったサルの皮をはぐ際に指を切ってしまったことだといわれており、それによって死に至る病を全世界に解き放ってしまったというのである。

 ノーベル生理医学賞受賞者のレーダーバーグはこういっている。
「地球を支配するうえで、私たちの唯一の競争相手はウイルスである。そして、その競争で人類が生き残るとは限らない。」


ウイルス感染のスタイル
長野敬著、日本分芸社刊「ウイルスのしくみと不思議」より)

 ウイルスは細胞内で十分に殖えたあげく、細胞をパンクさせる(バースト)という筋書きに従って考えてきた。これが典型的であることには違いない。細胞を壊すので「細胞崩壊性」の感染といえ、細胞はもちろん死ぬので「致死」感染であり、たいてい急速に進むので「急性」感染でもある。
 しかし違うパターンも認められる。ウイルスの増殖力が弱くて、宿主となり得る細胞集団のうち一部だけは感染しているが、他の細胞は無傷のままという状態が続いていれば、これは「慢性」感染である。
 また、ウイルスが、入り込んだ細胞のなかであまり徹底的には振る舞わないので、細胞はちゃんと生き続けており、一見しては感染とわからないのは、「不顕性」感染という。社会集団の立場からみれば始末に困る現象である。たとえば、Aさんが不顕性の感染をしていて少量のウイルスがいつも漏れ出ている状態、つまり「持続」感染の場合。このウイルスがBさんに伝わり、BさんはAさんほどウイルスへのブレーキがかからないとすると、一見、健康に見えた人から感染して発病が起こる。このような場合、ウイルスの源となるAさんを「保因者」という。保因者は無意識のうちに病気をうつしていることになる。また細菌でも同じ事態が起こることがある。
 また、放出されたウイルスが直接Bさんに伝わるほかに、ウイルスを含んだAさんの細胞がBさんに入って病因となることもある。病気の治療者側が、使用済みの注射針を誤って自分の腕に刺してしまう。いわゆる針刺し事故は、こうした感染の例である。


ウイルス感染大流行のパターン
生田哲著、日本実業出版社刊「ウイルスと感染のしくみ」より)

 なぜ、ウイルスによる病気で多くの被害者が出てしまうのか? この原因を知ることができれば、有効な対策が立てられるかもしれない。そこで、多くの犠牲者を出して来たウイルスによる病気を観察すると、ウイルス感染の大流行には三つのパターンがあることがわかる。どのパターンにも共通しているのは、それまでの生態系が混乱するという事実である。つまり、生態系を混乱させる次ぎの三つのパターンによって、ウイルスによる感染が爆発的に広がってきたのである。
 生態系の混乱の一番目は、ある特定のウイルスに感染しやすい人達を、ウイルスによる病気が広がっている地域につれていく場合である。たとえば、戦争あるいは平和維持のために、たくさんの兵士が戦地におくられる。彼等は、これまでの彼等の人生で見たこともない紛争地域に派遣されている。このような軍隊の移動ばかりにとどまらない。国の政治的な混乱や経済の貧困により、大量の難民が発生し、彼等は近隣諸国に移動する。たとえば、かつてのベトナムからのポートピープル、パレスチナの難民、旧ユーゴスラビアの難民、メキシコからアメリカへの合法および非合法移民など、例は数え切れないほどである。
 生態系の混乱の二番目は、ある特定のウイルスが、そのウイルスに感染した経験のない人達のなかに放り込まれた場合である。この例としては、インディオたちを襲い、彼等のおよそ1/3に及ぶ死者をだした天然痘、あるいは、アメリカのイヌイットたちに大きな被害を与えた麻疹があげられる。
 生態系混乱の最後のパターンは、もともと多くの地域で風土病として存在していた病気が、ある事件や事故をきっかけに、突如として先進国に流行することである。これは、衛生環境が格段によくなり、その地域の人がある特定のウイルスに対して抵抗力を失ってしまったことによる。この例にアメリカでのポリオの発生がある。
 これら三つのパターンのいずれでも、ウイルスによる感染は爆発的に広がってしまい、多くの犠牲者をだしてしまう。もともとウイルスによる病気は、ある地域に特有の風土病のようなもので、ときどき生態系が乱れることによって大流行してきた。


ウイルスが凶暴になるとき
生田哲著、日本実業出版社刊「ウイルスと感染のしくみ」より)

 ウイルスは自然ホスト(いつも侵入するホスト)には自分の家に入るかのようにスムーズに侵入する。だが、いくら侵入しても、自然ホストは重い病気にはならない。このように、ウイルスは自然ホストと穏やかな生活を営んでいる。だが、自然ホストの平和な生活は、別の動物を自然ホストにするウイルスが引っ越してくると、たちまちのうちに壊されてしまう。たとえば、本来は離れた場所にいる二種類の動物が、何らかの事情で近くで生活するようになったとき、ある動物を自然ホストにしているウイルスは、別の動物に引っ越すことがある。すると、それまで温厚であったウイルスは新たなホストに感染したとたんに狂暴な性格に変わってしまい、ときにはホストを殺すことさえある。
 その例を一つ紹介しよう。これは1950〜1953年の朝鮮戦争で起こったことだが、アメリカ軍兵士の約2000人が原因不明のウイルスに感染し高熱と脱水症状を起こし、そのうちの数百人が死亡した事件がある。当時、この原因はわからなかったが、ウイルスだろうといわれていた。それから20年以上が経過した1976年、ソウル大のホー・ワン・リーはこのウイルスを野生のマウスであるセスジネズミの肺から発見した。このウイルスは発見場所にちなんでソウルウイルスと名付けられたが、ハンタウイルスというグループに属しているウイルスである。なを、ハンタウイルスはRNAを遺伝子としてもち、球形でエンベロープに包まれている。ソウルウイルスがセスジネズミに感染してもセスジネズミは自然ホストであるため、まったく発病しない。ところが、ソウルウイルスがヒトに感染すると、高熱、脱水、内出血、腎臓障害を起こして患者を死に追いやる。どうやら、住み慣れた自然ホストを離れ新しいホストに感染すると、ウイルスは病原性を増す性質があるようだ。
 なぜ、ウイルスは住む環境が変わると狂暴になるのだろうか? ホストはウイルスにとって大事なパトロンである。だから、ウイルスはホストにできるだけ損害を与えたくないはずだ。それにもかかわらず、ウイルスが狂暴になるには、きっとつらい事情があるに違いない。そのつらい事情を推測してみよう。ウイルスは新しいホストを見つけて引っ越した。だが、最初のうちは環境に十分に慣れていないせいで、どうしてもストレスがたまってしまう。このストレスを発散させようとして、ウイルスは暴れ回り、毒性が増すのだろう。ウイルスが新しいホストに引っ越してからの時間が経過するごとに、ウイルスの病原性が下がることから、この推測は支持できる。
 だが、ウイルスはストレスを感じるのだろうか? ヒトの感情は脳の働きによって発生するので、脳をもたないウイルスには感情はない。だが、ウイルスが新しい環境に移動したことによって、自然ホストに感染していたときより、かなり余分に努力をしなければ生きられなくなったのは確実だろう。生きるために、ウイルスはこれまでにしていなかったような努力をしなければならなくなった。これをストレスと表現したわけである。新しい環境に適応するのに、ウイルスが苦労していることがわかる。


ウイルスが活性化する例
(月間Quark、1994年3月号、Science News「ダニの排泄物がインフルエンザウイルスを活性化する」より)

 ダニの排泄物は、アトピー性皮膚炎の原因になるばかりではなく、インフルエンザの原因にもなっていることが、熊本大学医学部微生物学教室の前田浩教授と赤池孝章講師らの研究グループによって分かった。
 教授らは、微生物のプロテアーゼ(タンパク質分解酵素)が、インフルエンザウイルスを活性化することを発見。試験管の中の実験では、住宅内に棲息しているコナヒョウヒダニの排泄物に含まれているプロテアーゼにも、インフルエンザを活性化する働きがあることを確認した。
 そこで、A香港型インフルエンザウイルスに感染させたマウスを2つのグループに分けて、一方のグループに、コナヒョウヒダニの排泄物から抽出したプロテアーゼの粒子を、鼻から吸わせた。そして3日後、マウスの体内のインフルエンザを調べたところ、プロテアーゼを吸ったグループのウイルスの量が、吸わなかったグループに比べ、100倍近くも多くなっていたのである。
 「ダニの排泄物に含まれるプロテアーゼには、ウイルスを活性化し、その感染力を高める働きがあります。家庭内の浮遊粉塵(埃)には、このプロテアーゼが、実際に相当量含まれており、それを、このウイルスの増殖部位である上気道に取り込むと、インフルエンザにかかりやすくなると考えられるのです。」(前田教授)
 これらの知見に基づけば、インフルエンザが冬に流行する原因の一つは、室内の換気が悪くなり、ダニの排泄物を多量に吸い込むためだと推測されている。教授は、インフルエンザを予防するためには、清潔にしてダニのエサとなるカビの増殖を抑えること、また、あまり埃っぽい所を避け、なるべく頻繁に部屋の空気を入れ換えることなどを勧めている。


ウイルスの溶原化
長野敬著、日本分芸社刊「ウイルスのしくみと不思議」より)

 大腸菌に感染するウイルスのなかでも、ラムダファージは特別の生活環によって研究者の注意をひいた。ラムダファージは、T系ファージのように感染したらすぐ相手細胞の中で急速に殖えて細胞を破裂させ、子ファージを外に送出すという膨張政策をとらない。相手のなかに収まって鳴りを潜めるのだ。いわば和解路線といえる。ただし真の和解でなく、宿主の生存が怪しくなればいつでも見切りをつけて逃げ出すのだから、獅子身中の虫が昼寝をしているともたとえられる。細菌細胞のなかで、こうして眠っている状態を「溶原化」という。それに対して、T系ファージのようにただちに勤勉に増殖に励む状態を「溶菌化」という。
 溶原化という言葉は難解だが、せんじつめれば簡単なことである。ラムダファージのDNAは二重らせんの長い線状分子だ。両方の末端がうまく合致する相補的な配列になっているので、感染すると細胞内で環状になる。環状のまま、内側をなぞるようにしてDNAが複製されていくのが溶菌化の状態である。ところが、環の一部で、環になるために接着した箇所とは違う箇所が切れ、切れた両端が細菌のDNA鎖と組み換えをおこすことがある。細菌の側から見れば、自分のDNAのある箇所が切れて、そこにラムダのDNAの全長が割り込んでしまうのだ。
 割り込みが無事に済めば、細胞内に一見したところファージはいなくなる。宿主のDNAの一部として納まってしまっているからだ。この状態のものをプロファージ、つまりファージの前駆体とよぶ。別名テンペレート・ファージともいう。宿主が大腸菌の場合、大腸菌が分裂・増殖するときには、プロファージも染色体の一部として同格に扱われ、複製されて子細菌に分与されていく。テンペレート、すなわち控え目、穏健という名にふさわしい、波風を立てない賢明なやり方だ。しかし、もしその状態が無限に続けば、ラムダファージは「一見」いないどころか、すでに大腸菌の一部に吸収されて、永久にいなくなったことになる。

 細菌などと違ってウイルスの場合は、宿主に迷惑をかけざるを得ない必然性が高いといえる。ウイルスは自分では代謝せず、自前で遺伝物質を複製することもできないため、宿主細胞のエネルギーと素材を横取りするしかない。したがって増殖を盛んにすることは、細胞を破壊してしまうことにつながってしまうのだ。
 もしウイルスにとって、自分の遺伝子情報を代々子孫に引き継いでいくことに意味があるとすれば、バーストするよりも溶原化と言うテンペレート(穏健)な方向のほうが、ずっと賢明なはずだ。それなのになぜ、すべてのウイルスが溶原化の方向に進化しないのだろうか。そう考えた時、答えは一つしかない。ウイルスにとって自らの存在の意味は、単に遺伝情報を引き継いで絶やさないことだけではないのだ。できるだけ能率よく殖えて、多数の子孫をできるだけ短時間で世に送り出すことが、ウイルスの本来の在り方だと考えざるを得ない。
 では、テンペレート状態というのはファージが自分の「存在」をあきらめて、細菌の一部になってしまったことを意味するのか。あるいは、宿主のさいぼうがピンチにおちいれば、沈没船を見限るネズミのように、いつでもドライに逃げ出す用意は怠りなく、単にひと休みしているにすぎないのだろう。
 ふだんテンペレント・ファージは、溶原化して宿主細胞のDNAに入り込み、その一部となって鳴りをひそめている。ところが、入り込んだ細菌が代謝を妨げる物質に出会ったり、あるいは強い紫外線を浴びたりすると、ファージはにわかに活発になって宿主の細胞内で子ファージを急増させる。細胞は破裂、つまりバーストを起こして、ファージは細胞外に放出される。細胞のほうは溶けてなくなってしまう。この現象を溶菌という。おとなしくテンペレート(穏和)状態だった溶原性ファージが、刺激によって溶菌性のヴィルレント(猛悪)なファージに変身するのだ。このように溶原性⇔溶菌性という二重サイクルの生活を送るファージを溶原菌という。

 溶菌化によって、ファージは生存を脅かされている宿主から脱出し、多数の子ファージを周囲にばらまいて新しい宿主細胞を探す。これは一見とても有効な行動のように見える。しかし、実際の自然条件のもとではどうだろうか。自然環境は、細菌1個ずつを区別できるほどミクロに違っていることは稀だ。溶菌化によって沈没船から脱出した子ファージが、新しい船である次ぎの宿主細胞に乗り移ろうとしてあたりを見回しても、そこら一面の細菌細胞が同じピンチに出会っている。つまり、乗り移った(感染)途端にまた沈没してしまうということのほうが、現実には多いだろう。しかしだからといってあきらめてしまってはいけない。万が一ということがある。今「乗り移った」とか「あきらめる」と書いたのは、もちろん比喩にすぎない。ウイルスは意識など持ち合わせてはいない。しかし、ついこのように書きたくなるほど、溶原化⇔溶菌化の二重サイクルは、目的にかなった行動を連想させる。
 生命の進化では、万に一つのチャンス、つまり成功する確率が1万分の1でもゼロよりははるかに大きいという基準がある。そのもとに、ファージの進化の過程で溶原⇔溶菌の二重サイクルが可能なファージが生み出されてきたのだ。


HACCPシステム
(食生活研究会編、1997年、農文協刊、「見分けて選ぶ輸入食品Q&A100」より)

 HACCPとは「Hazard Analysis Critical Control Point」の略称で、「危害分析重要管理点」と訳されます。もともとは1960年代、アメリカ航空宇宙局(NASA)で医者のいない宇宙で宇宙飛行士が食中毒を起こさないよう、宇宙食の安全性を保証するシステムとして開発されたものです。
 それまでは出来上がった製品から一定数を抜き取り検査し、結果がわかってから出荷するという方法でした。これに対しHACCPは、安全性を各工程の途中で厳しくチェックし、問題のある製品は市場に出さないというシステムです。具体的には次の七つの原則からなっています。

1:発生の恐れのある危害(生物的、化学的、物理的)すべてを分析する。
2:重要な管理点を明らかにする。
3:重要管理点に予防措置の限界域を確立する。
4:重要管理点を監視する手順を確立する。
5:トラブルが発生したときの修正措置を明らかにする。
6:HACCPの概要と、重要管理点の監視結果を記録する。
7:システムが常に機能しているか検証する。

1993年、コーデックス委員会でHACCPを食品製造に適用するためのガイドラインがつくられて以来、国際的にも導入が推奨されてきました。アメリカでは水産加工品、食肉に、カナダでも、と畜物、食肉製品、乳製品に導入しました。
 EU(ヨーロッパ連合)では、水産物、乳製品、食肉など動物性食品を含むすべての製造施設に導入を規定したEU指令が出され、食品衛生基準の統一をはかっています。この指令はEUに輸入される食品にも適用されます。実際、eu指令にもとづく衛生管理を行なっていなかった日本の水産食品の輸入が拒否されたことは、記憶に新しいことです。
 日本でも食品衛生法を改正し、1996年5月24日から、総合衛生管理製造過程による承認制度の導入という形でHACCPが採用されました。つまり食品の製造方法について厚生大臣の承認を得られれば既存の製造方法(食品衛生法)の基準に適合しなくても製造ができ、衛生管理者を置く義務もなくなります。当面は食肉製品、乳・乳製品が対象ですが、O-157事件以後、みそ、しょうゆの製造所、給食の現場にもこの方式を取り入れる方向に進んでいます。
 牛乳協会では、HACCPシステム導入のための講習会を各地で開催していますし、学校給食でも、原材料の搬入から調理ずみ食品の保管までの工程にそれぞれマニュアルをつくる方法を検討しています。また、大手ハンバーガーショップでは使用する牛肉を生産する畜産家の飼料までチェックし、基準に達しないものは返品したり、加工、調理、販売各段階でのチェックにもすでに独自のHACCPを導入したりしているところがあります。
 HACCPは、より高い食品の安全性が得られ、国際的にも合意されているシステムです。ただこのシステムを取り入れるためには、かなりの知識、人材、費用がかかるため、中小の企業ではまだまだ導入はむずかしいのが現状です。


エコロジー
(手塚治虫著、潮ビジュアル文庫「ブッダ」より)

ブッダ:「おまえはだれだ?---- 悪魔か神か?------神なら返事をしてほしい。悪魔ならいくがいい。」
ヤタラ:「おれ、神でも悪魔でもない----人間だ。この世でいちばんふしあわせな人間だ。----おま、おまえ坊主だな!? 坊主さあ答えろ。なぜ世の中、ふしあわせな人間としあわせな人間いるのか。なぜ なぜそうなのか、さあ答えろ!? 答えろ!答えない、殺すぞ」
ブッダ:「おまえは自分がいちばん不幸な人間だといったが、そのふたりのおかあさんのほうがもっと不幸なのではないか?」
ヤタラ:「ウッ--- じゃ、じゃあ、おっかさん殺した王子だ! ルリ王子! それなのにルリ王子罰うけない。誰もとがめない! なぜだ!」
ブッダ:「おまえの話では、その王子は、ほんとうは実の息子なのだな、その女奴隷の? それがほんとうならその王子は、奴隷階級の母親から生まれていままで育つあいだにどんなに苦しんだろう。そして、奴隷として母親をわざと追放し焼き殺す命令を出したとき、心の中は、どんなに苦しかったろう。それを顔にも態度にも出さずに王子としてがまんしなければならない立場だったのだろう。その母親をにくむ気持ちと、したう心とがぶつかりあったとき、その王子はどんなにもだえ苦しんだろう。その王子こそ不幸な人間だ、そう思わないか。そして苦しんでいる王子を見るにつけ、まちがって女奴隷と結婚して王子を生んだ父親の王は、もっと苦しんだろう。もっと不幸な人間ではないのか? おまえに見守られて死んだおかあさんはまだしも、何も知らずに焼き殺された女奴隷達はもっと不幸ではないのか? ずっとたどっていくがよい。だれもかれも、ひとり残らずみんな不幸なのだ。この世に幸福な人間なぞありはしない!」
ヤタラ:「ウッ---ウッ、ウオオオオオッ----、ウウ----、ワァー、ワァー、オオオオオ、ウッウッ、------------。みんな不幸、そんならなんで人間はこの世にあるんだ----。」
ブッダ:「木や草や山や川がそこにあるように、人間もこの自然の中にあるからにはちゃんと意味があって生きているのだ。あらゆるものとつながりを持って----。そのつながり中でおまえは大事な役目をしているのだよ。」
ヤタラ:「このおれがか---。このオレに役目があるって? この役にも立たんオレが?」
ブッダ:「そうだ。もしおまえがこの世にいないならば何かが狂ってしまうだろう。」
ヤタラ:「おまえふしぎなこという----。おれ、そんなふうに思ってもみなかった---。じゃあ、おれ、これからどうやって生きていけばいい?」
ブッダ:「その川をみなさい。川は偉大だ。自然の流れのままにまかせて何万年もずっと流れている。流れをはやめようという欲もなければ、流れを変えるちからも出さない。すべて自然のままなのだ! しかも大きく美しい。よろこばれ、そしてめぐみをあたえている。おまえも巨人だ。おまえのいきかたしだいで、川のように偉大にもなれるだろうよ。」

ブッダ:「あの男はもしかしたら私をためす神だったのかもしれない。なぜさっきあんなことをいったのだろう? 思わず口から出てしまったんだ。私が考えもしなかったことばが!『木や草や山や川がそこにあるように、人間もこの自然の中にあるからにはちゃんと意味があって生きている。あらゆるものとつながりを持って! もし、おまえがいないならば何かが狂うだろう。おまえは大事な役目をしているのだ。』 私があの男にしゃべったことばは、私が自分自身に教えたんだ! オオ---、私の心のとびらがいま開いたぞ!光よ、光よ、光よ!私の前を照らしてください。私は命のかぎり果たします。この宇宙の中の私の役目を!

   
エンヴェロープ
長野敬著、日本分芸社刊「ウイルスのしくみと不思議」より)

 エンヴェロープは「外被膜」とも訳され、ウイルス本体であるヌクレオキャプシドを納める「封筒」のようなもの。生体膜と同じく、脂質二重膜の構造からなっている。これはウイルスが細胞から出て行くときに、宿主細胞膜の一部を自分が羽織るマントとしてもらってきたものだ。しかしこのマントは、もはや宿主細胞膜の単なる断片ではない。いろいろな種類の特殊なタンパク質分子が埋め込まれたウイルス特有の膜になっている。エンヴェロープに埋め込まれたタンパク質分子は、次ぎにまた新しい細胞に取りつくとき、自分に合う細胞表面を見分けるセンサーの役目をする。また、タンパク質分子が相手の細胞膜に作用して、侵入に都合のいいように少し変化させることもある。侵入用の小道具としての酵素を備えているウイルスもあるのだ。さて、これらのタンパク質は、ウイルスが自分の遺伝情報を宿主細胞のタンパク質合成系に与えて、特注で合成させたものである。タンパク質自体はウイルス特有のものに設計されているが、その材料であるアミノ酸の調達やアミノ酸をつなぎ合わせる合成作業、それに必要なエネルギーは、すべて細胞の本来の活動を流用したものである。ウイルスがやった仕事は、自分に好都合な情報を細胞に押し付けたことだけであり、横着さは遺憾なく発揮されている。ウイルスの出芽に先立って、これらのタンパク質は宿主細胞膜上に整列し、埋め込まれて、細胞膜をウイルス特有のマントに変化させる。その上で、ウイルスの核酸は、この特注仕立てのマントを羽織り、完成したウイルス粒子となって細胞膜を出て行くのだ。


科学
(カール・セーガン著、新潮社刊「カール・セーガン科学と悪霊を語る」より)

 科学的な思考法は想像力を必要とすると同時に、訓練によって鍛えられたものでもある。そして、まさにその点こそが、科学が成功している理由なのだ。科学は、たとえ予想に反していても、事実は事実として受け入れるようにわれわれを励ます。また、仮説はいくつも用意しておいて、事実にいちばん合うのはどれかを見きわめなさいと教えている。そして、新しいアイディアが出れば、それがどんなに奇妙なものであっても心を開いて受け止める一方で、新しいアイディアであれ定評ある学説であれ、とことん疑ってみるよう強く迫るのである。こうした思考法は、めまぐるしく変化する時代の民主社会にとっても欠かせない道具になってくれるだろう。
 科学が成功したもう一つの理由は、その核心部にエラー修正機能が組み込まれていることだ。エラーがあれば修正するというのは、なにも科学だけの特徴ではあるまい、と思う人もいるかもしれない。しかし私に言わせれば、自己批判に努めたり、自分の考えを外界と照らし合
わせたりするとき、人は科学しているのである。逆に、ご都合主義にはまり込んで批判精神をなくし、願望と事実とを取りちがえているようなとき、われわれは似非(エセ)科学と迷信の世界にすべり落ちているのだ。
 学術論文でデータを示すときには、必ずエラーバーをつけることになっている。エラーバーは、完壁な知識などないということを思い知らせてくれる。それは、ある知識がどれぐらい信頼できるかを測る尺度なのだ。エラーバーが短ければ短いほど経験的知識は精密になり、エラーバーが長ければ、それだけ知識はあいまいになる。純粋数学を別にすれば、確かな知識などというものは存在しないのだ(逆に、確かな誤りは非常に多い)。
 さらに言えば、科学者という人たちは、自分のやっていることが正しいと断言することにはとても慎重なものである。推測や仮説は当然ながら暫定的なものでしかないし、くりかえし検証されてきた自然法則でさえも、絶対に正しいとは言い切れない。なぜなら、まだ調べられていない新しい状況があるかもしれないからだ。たとえばブラックホールの内側や、電子の内部や、光速に近い状況では、信頼していた法則が成り立たなくなるかもしれない。普通の状況ではやはり有効だとしても、なんらかの修正が必要になるかもしれないのだ。
 人間というものは、絶対に確かだと言えるものが欲しくてたまらないのかもしれない。人はみな、確かなものに憧れているのではないだろうか。そして、ある種の宗教の信者たちのように、それはすでに手に入ったのだと自らを偽ることさえある。しかし、科学の歴史が教えているように(知識を得るという点では、科学は人間が手にしたなかで最も成功している方法だ)、せいぜい望みうるのは、一歩一歩理解を深め、まちがいから学びながら、少しずつ宇宙に迫ることぐらいだ。”絶対に確かなもの”は、常にわれわれのそばをすり抜けていくだろう。
 人間にエラーはつきものである。われわれにできることは例えば、エラーバーを少しずつ短くしてゆき、もともとのデータを増やすことぐらいでしかない。エラーバーは知識の信頼度をわかりやすく教えてくれるので、世論調査などでも使われている(「プラスマイナス3%の不確実性」といったぐあいに)。ためしに、連邦議会議事録に載っている発言や、テレビコマーシャル、教会の説教などにも、エラーバーをつけてみたら面白いのではないだろうか。
 「権威者の言うことは信用するな」というのは、科学の偉大な戒律の一つである。(もちろん、科学者も霊長類なので集団内の順位には弱く、いつもこの戒律が守れるとはかぎらないのだが。)権威ある人物の意見が、目を覆うようなまちがいだったというケースはあまりにも多い。そこで科学の世界では、権威があろうとなかろうと、何かを主張するからにはきちんとそれを証明しなければならないのだ。このように、科学は権威の言いなりにならず、ときには伝統の知恵さえあっさり捨ててしまうので、自已批判力に乏しくてプライドの高い教義からは危険視されるのである。
 科学がいざなう先にあるのは、ありのままの世界であって、世界はこうあってほしいという願望ではない。そのため科学の発見は、必ずしもわかりやすくはないし、心を満たしてくれるものとも限らない。新しい発見を突きつけられれば、こちらの頭を切り換えるにも多少の努力が必要になるだろう。もちろん、科学にも簡単でわかりやすい部分はあるし、科学が複雑になるのは、たいていは現実の世界が複雑だからだ(われわれが勝手に混乱しているだけの場合もあるが)。むずかしそうだからといって(あるいは、教え方が下手だったせいで)科学を手放すことは、未来を担う力さえも手放してしまうことだ。人は大きな権利を奪われて、自信さえも失ってしまうだろう。
 しかしその壁を乗り越えて、科学の発見や科学的方法のことを知り、その知識を生かせるようになれば、深い満足をおぼえる人が多い。これは年齢によらないことだが、とりわけ子供はそのようだ。子供たちは生まれながらに知識への強い欲求をもっているし、科学が形作る未来を生きていかねばならないことも知っている。ところが思春期ごろになると、自分は科学に向いていないという思いを何度となく抱かされてしまうのだ。それでも、いったん科学が理解できるようになれば、深い充足感を味わうことができる。あいまいだったものが突然意味をなしたり、これまで混乱していた問題がすっきり解決したり、霧が晴れるように深い謎が解けたりしたときは、本当に満ち足りた気持ちになるものだ。私自身、誰かから説明してもらったときにも、また、私が他の人に説明しているときにも身に染みてそれを感じた経験がある。
 科学が自然に出会うとき、そこにはいつも畏敬の心がある。たとえどんなに小さなことでも、理解するという行為こそが、壮大な宇宙に参加してそこに溶け込むための喜ばしい一歩なのだ。そして世界中の人たちがじっくり知識を積み上げてゆけば、科学は国や世代を超えたメタ理性ともいうべきものに変わるだろう。
 英語の「スピリット(精神)」という言葉は、「呼吸する」という意味のラテン語に由来する。われわれが呼吸しているのは空気であり、どんなに薄くとも物質であることに変わりはない。つまり、普段の使われ方に反して、「スピリチュアル(精神的な)」という言葉は、必ずしも 物質(脳を構成する物質も含めて)以外のもの、あるいは科学の範疇外のものを指すわけではないのである。私はこれから先、ためらわずにこの言葉を使わせてもらうつもりだ。科学は精神性と矛盾しないばかりか、深いところでは精神性を生み出す源なのだから。人が空間と時間のなかで自分の位置を認識するとき、あるいは生命の複雑さや美しさや精妙さを理解するとき、そこには喜びと謙遜の入りまじった感情が生まれる。それはまさに精神的としか言いようのないものだ。その感情は、偉大な美術や音楽や文学を前にしたときや、マハトマ・ガンジーやマーティン・ルーサー・キングらの勇気ある無私の行為を前にしたときに感じるものと何ら変わるところがない。科学と精神性は互いに相容れないなどと考えることは、どちらにとっても百害あって一利なしというべきだろう。


科学者
(カール・セーガン著、新潮社刊「カール・セーガン科学と悪霊を語る」より)

 科学者はなぜこんな仕打ちに耐えているのだろうか? あら捜しをされるのが好きなのだろうか? いや、そうではない。あら捜しをされて喜んでいる科学者などいない。科学者は誰しも、自分のアイディアや発見に深い愛情を感じているものだ。それでも科学者は批評者に向かって、、ちょっと待ってくれ。これは本当にいいアイディアなのだ。私はこのアイディアをとても気に入っているのだ。あなたに迷惑はかけない。頼むから放っておいてくれと言ったりはしない。そう言う代わりに、科学者はつらいけれども公正なルールに従う。そのルールとは、うまくいかないアイディアは捨てるということだ。うまくいかないアイディアに頭を使ってもしかたがない。そんな暇があったら、新たなアイディアを生み出し、データをよりよく説明できるようにすべきなのだ。イギリスの物理学者マイケル・ファラデーは、こんな警告を与えた。

 人間には、思い通りの証拠や結果がほしい、まずいものには目をつぶりたいという強い誘惑がある。人は、自分に賛同してくれるものを喜んで受け入れる一方で、反対するものはなかなか認めようとしない。しかし良識の教えるところによれば、まさにその反対のことをすべきなのである。

 正当な批判は、われわれの糧なのだ。科学は傲慢だと思っている人もいる。とくに、長い間信じられてきた観念を否定したり、常識に反するような突飛な概念を打ち出したときには、傲慢にもみえることだろう。慣れ親しんだ考え方にケチをつけられたり、頼りにしてきた教義をゆるがされたりすれば、人は深く動揺するものだ。それでも私はあえて言いたいが、科学はある意味でとても謙虚なのである。科学者は自分の願望を自然界に押し付けたりしない。それどころか、自然に対して謙虚に問いかけ、わかったことを素直に受けとめているのだ。科学者たちは、立派な科学者でもまちがうことがあるのを知っているし、人間の不完全さもよく承知している。そして、できるだけ多くのアイディアが出ることを強く望んでもいるのだ。問題はないかとたえず突っきまわり、疑問を投げかけ、矛盾を探し、しぶとく隠れているミスをたたき出そうをしているし、ほかに説明のしかたはないかと頭をしぼり、異説が出れば喜んで受けとめようとする。そして科学者がいちばん高く評価するのは、確立された概念をひっくり返すような仕事なのだ。


風邪(インフルエンザ)

多田富雄先生(東京理科大、生命科学研究所所長)のお話し
(月刊「シンラ」1995年8月号pp.121-123『南伸坊の免疫学個人授業、7回)』より)

 「風邪というのはね、僕は風邪で何が起こっているのか、毎日刻々とわかるんですよ商売柄。例えば風邪をひくでしょ、一番最初の日、熱なんかでない、なんとなくのどが痛い、いがらっぽい。そういう感じですね。この時、何が起きているかというと、ウイルスが体に入った。ウイルスに対するレセプター(受容体)を持っている細胞にそれがくっついた。くっついてその中でウイルスが増え始める。そうするとインターフェロンという、ウイルスの増殖をとめるような物質が、その感染した細胞でつくり出されるんです。ちょっとのどがおかしい、というのはこのインターフェロンが出たせいです。このインターフェロンに粘膜の細胞が反応しているわけです。
 次の段階ではナチュラルキラー細胞(NK細胞)とかマクロファージという細胞が出てくる。NK細胞は、感染を起こした細胞を殺して排除しようとするマクロファージは、感染したり障害された細胞を構わず食べちゃう、食べて排除しようとするんです。こんなことでは風邪は治りません。
 このマクロファージから次にインターロイキン1という物質が出てきます。インターロイキンはいろんな作用がありますが、一つは脳に働く。脳の視床下部というところに働いて、発熱中枢を刺激する。そうすると熱が出てきます。もう一つは、T細胞に働く。インターロイキン1が働いてT細胞が刺激されます。T細胞がだんだん増える。そうなるまでに2〜3日かかります。増えたT細胞は、異変があるらしいというので、のどとか鼻に寄ってくる。そしてT細胞の中に、インフルエンザウイルスと反応するのがいると、そこで分裂を始める。と同時にいろいろなインターロイキンとかサイトカインとか呼ばれるものをどんどんつくり出す。
 サイトカインとかヒスタミンとか、こういう体の中の刺激伝達物質が働くと、クシャミが出たり、鼻水が出たり体がだるくなったりします風邪薬というのは、こういうときに、クシャミを抑えたり、鼻水をとめたり、熱を下げたりするわけですが、根本の原因、つまりウイルス感染そのものを治しているわけじゃないんですね。つまり、薬で風邪は治らない。風邪は自分の体が治してくれるまで待つしかないんです。サイトカインは、次の段階で眠っているキラーT細胞を起こして指令を出す。そうすると、キラーT細胞は現場に寄ってきて分裂したりして働き出します。このキラーT細胞が出てきて、初めてウイルスに感染している細胞が殺されてゆくのです。ちょうどその頃、やはりインターロイキンのおかげでB細胞というもう一種類の細胞が働き始め、ウイルスを中和する抗体を合成しはじめます。初めの頃の抗体というのは、効果の弱いIgMという抗体なんですけれども、このインターロイキンの作用で何回か分裂している間に、IgMから効果の確実なIgGという抗体に変化する。しばらくの間、なかなか治りが悪いと思っている頃は、これはまだIgMなんですね。それがある日突然、今日は大分気分がいいぞ、と言う日が来る。この時にIgMがIgGにスイッチしているんですね。IgGになると非常に強力にウイルスを中和する作用がある。ウイルスに感染してからIgG抗体が十分にできるまでにだいたい一週間くらいかかります。
 もう一度、最初から整理すると、最初のどがいがらっぽい、このときはウイルスが細胞の中で増殖し、インターフェロンが出て、NK細胞が働いている。異物が入ってきたので、単にそれを殺しにかかっている。あっ、きょうはNK細胞が働いてインターフェロンが出ているな、と思うわけです。次に熱が出てきたら、きょうはマクロファージが働いているなと、この熱が出るというのは、その後でT細胞が働くのに非常に重要な段階です。熱が出てT細胞が働き出して、キラーT細胞が働けば、どんどんウイルスに感染した細胞を殺していくんです。そしてIgM、IgGという抗体ができるという具合になっていく。
 われわれは、風邪をひくと『患者』になったと思って、さあ医者にかかんなくっちゃ、と思うけれども、本当は医者にかからなくたって、体が自分で治すんですねのどがいがらっぽいのは病気というより病気を治しているプロセス。しかしのどがいがらっぽいとか、クシャミが出るとか、熱が出るっていう、体が自分で治している過程というのが、われわれの日常では迷惑です。それで、風邪薬を飲む。それはつまり自分で治ろうとしている体の治療行為をじゃましているのかもしれない。
 風邪薬っていうものはですね、鼻水とめたり、クシャミとめたり、熱さましする。でも風邪が治るというのは免疫が治すので、薬では治りません。抗生物質をいきなり飲むというのも、まったく意味がない。抗生物質というのは、ウイルス感染が起こると、あちこちに傷ができますね、傷ができると、通常はあまり害の無い細菌が入ってきて悪さをする。この段階で飲んで、効果のあるものです。最初から飲んでも意味ないんです。」


学問
(月刊「シンラ」1997年7月号p.135『南伸坊の解剖学個人授業、15回)』より)

 ヨーロッパ中世の医学は、なんでもえらい人の言うとおり、いままで言われているとおり、自分の考えなどは大したもんじゃない。という大変謙虚なものだったそうですが、謙虚ばかりではいかがなものか? と先生(養老孟司先生)はおっしゃるのです。学問というのは、出来上がったものが、自分の外にあって、それを必死に覚えるというだけのものじゃない。知りたい、わかりたい、おもしろがりたい、というのが学問のダイゴ味で、そうであるならいかに下らなかろうと、ゴーマンかましてよかですなのだった。
 なにかをわかることは、ものすごくたのしい、なにかをわかることは、ものすごくおもしろい、学問というのは「面白主義」だ! という、かわりばえのしない一つ歌を、さらに大声でがなりたてる自信を、植えつけていただいたような気がします。


ガンボ
(ゼンリン発行「ラパン」1997年5月号pp.141-142『アメリカの郷土料理ケイジャン』より)

 アメリカ合衆国南部の都市ニューオリンズに、奴隷であった黒人の料理人がフランス、スペイン、アングロサクソン、そして原住民のインディアンの影響を受けながら作りあげたケイジャンという郷土料理があり、それを代表する料理の一つのオクラのスープの名前をガンボという。アフリカではオクラのことをガンボと言い、ケイジャン料理ではオクラをたっぷり入れて作ったスープのことをガンボという。チキンやカニ、ザリガニをいっしょに煮込んだものなど、家庭や店ごとにさまざまな種類の味を楽しめる。砕いたクラッカーやバターライスをスープの中に入れたり、コーンパンをかじりながらすするとおいしい。


教育
(月刊「シンラ」1998年1月号pp.140-141、吉田真由美著『脳科学最前線情報、13回)』より)

 子供の能力の発達は、早くから訓練を始めれば始めるほど高くなるというバラ色の単純思考は、猛烈なストレスを親と子供に与え、結果として、子供の能力の発達を妨げるという、思ってもみなかった結果を生んでいるのです。
 確かに今の教育では、早熟な方が学校の成績は良くなる様な仕組になっています。従って、より早く文字が読めて四則計算ができるようにと、親はこぞって子供を幼児教室に通わせ、ムダなく効率良く勉学させようとする訳です。
 しかし、6才になれば一カ月で覚えられる平仮名を、何故2才半で半年や1年もかけて覚える必要があるか。第一、脳の発達からいっても、長期記憶を司る海馬というのは、大体5、6才までその機能が十分発達しないといわれている訳で、それ以前に、正確な知識というものを定着させようと思っても、そもそもかなり無理があるのです。大体、2才半で本が読めるようになるのに、どうして活字離れが進むのか。むしろ自ら「読みたい」という欲求が出てくるまで待たずに本を無理に読ませたりするからこそ、かえって活字離れに拍車がかかるのではあるまいか。

 親やメディア等によって、本人の成長のスピードを無視して早熟に仕立て上げられた子供は、
「他人をほめる事ができない」
「クラスの中で、常に他の子供より自分の方が上でないと気がすまない」
「イライラして気が短い」
等の共通した特徴がある事が知られています。
 いじめをはじめとする現代の教育の問題は、実は促成栽培にその根があるのではないか。
 教育というのはどうやら、「ゆっくりと成長を待つ」ということであるらしい。


共生
(阪地英男・奥谷喬司著、甲殻類の研究 第17号
八重山群島黒島におけるヒトデヤドリエビのヒトデとの関係について」より)

 Patton(1967)はある生物が他の生物と一緒に住むことを、広い意味での共生(symbiosis)と呼び、それをホストとの栄養関係によって寄生(parasitism)、偏利共生(commensalism)、相利共生(mutualism)に分けた。すなわち、
 寄生:共生者がホストの組織を吸収したり、食べたりして、栄養を得るもの。
 偏利共生:共生者が生きているホストの組織を栄養として得ているもの以外の、すべての関係を含む。
 相利共生:寄生でも偏利共生でもホストにとって利益がある関係。
である。


 今日をこえて

詞曲 岡林信康
岡林信康アルバム第二集(URCレコード)「
見るまえに跳べ」より

くよくよするのは もうやめさ
今日はきのうをこえている
きのうに聞くのも もうやめさ
今日をこえた 明日がある

何とでも言うがいいさ
よい子でいたいお利口さん
あんたにゃ わかるまい
今日をのりこえて
明日に生きることなんか

しがみつくのは もうやめさ
今日もきのうになっちまう
利口ぶるのも もうやめさ
明日もきのうになっちまう

何とでも言うがいいさ
よい子でいたいお利口さん
あんたにゃ わかるまい
今日をのりこえて
明日に生きることなんか



三田誠広著、ネスコ、文芸春秋刊「般若心経の謎を解く(誰もがわかる仏教入門)」より)

 一般の信徒のためには、釈迦はもっとシンプルな教えを説いています。
 煩悩にとらわれずに、欲望に負けないように、質素に生きなければならないけれども、禁欲することにこだわったり、形式にとらわれたりするのもよくない。中ぐらいのところで、穏やかに生きる。その範囲内で、世のため人のためになるように、しっかりと働きなさい……。釈迦の教えは、ごく常識的なものです。だからこそ、多くの人々の支持を集めたのです。
 存在論的な「空」は、修行者のための解釈だと割り切って、頭の隅にとどめておく程度でいいでしょう。すべてが虚妄だといっても、何か見えていることは事実です。美しいものが見えているのなら、しっかりと見て、その美しさを楽しめばいいのです。おいしいものを食べるのもいいし、音楽を聞くのもいいし、いい匂いを楽しむのもいい。体を動かして運動する充実感を味わうのもいいでしょう。でも、快楽に負けて、心が乱れたり、苦しくなったりした時には、自分が欲望を感じているものは、実体のない影にすぎないと考えてみる。
 とらわれてはいけない。こだわってはいけない。
 これが、一般庶民にとっての「空」の意味なのです。


健康食品
野本亀久雄著、ダイヤモンド社刊「免疫力」より)

 著者が健康食品をすすめるのは、これからの時代はセルフメディケーション、すなわち「自助努力による健康管理」が求められる時代になると思われるからです。
 厚生省では医療費を抑制するため、従来の出来高払い制から定額払い制に転換しようという方向を打ち出しています。定額制とは、たとえば病気や医療内容ごとに一日当たりいくらという形で診療報酬額を定める方式です。これだと病院では最低限必要な薬しか処方しないようになる。むやみに薬を処方すれば、儲けが飛んでしまうことになるからです。この結果、出来高制の間隙をついてボロ儲けを企む不埒な医者は排除されることになります。しかし、一方で、患者の側からすれば、今後は自分の体調をととのえる程度の薬は病院から処方してもらえなくなる。これはいわば「自分の健康は自分で守りなさい」ということで、医者もボロ儲けできなくなると同時に、国民も自分の健康に関して自助努力をしなければならなくなるわけです。
 そこで期待されるのが健康食品なのです。平素は健康食品などで自分の体調をととのえ、いざというときは医療機関のお世話になる。その場合にはもちろん健康保険が適用され患者の負担は従来通り少なくてすみますが、日常生活を健康に送るために必要な健康食品には健康保険は適用されませんから、その分は自己負担が必要になってきます。そうなると、健康食品にまつわるさまざまな規制は、今後ますます緩和される方向へ向かわざるを得ず、おのずから自由な市場が形成されてくるでしょう。このことはこれまで何かと規制に縛られてきた健康食品業界にとっては、大きなチャンスが巡ってきたことでもあります。
 人類は長い歴史の中で、体に悪い食品は排除し、よいものは子から孫へと伝えてきました。そのうち、とくに体にいい食品については薬として活用したり、薬に準ずる食品という認識を持ち続けてきました。たとえば「蓄膿症にドクダミが効く」とか「精力減退には朝鮮人参がいい」などといわれていますが、それは私たちの先祖が連綿として継承してきた生活の知恵であり、「医食同源」という言葉のゆえんもそこにあるのです。だから健康食品のもつ特色や長所をうまく利用すれば、悪化の一途をたどる生活環境がもたらすさまざまな害から身を守ることが期待できるし、体調が崩れたときも、体が本来もっている復元力が働いて、未然に病気から身を守ることができるはずです。

 医学の世界ではこれまで健康食品に対しては、科学的根拠がないと無視したり、かなり冷淡な態度をとり続けてきたように思います。医師が自分の患者に健康食品をすすめたりしようものなら、たちまち白眼視されたものでした。たしかに、健康食品のほうにも怪しげなものが少なくなかったし、いまでもそういった類のものも存在しています。効能などまったくないのに「何々に効く」と臆面もなく効能をうたって販売される健康食品、評判ばかりが一人歩きしている健康食品、そんなまやかしものの健康食品と、本当にすばらしい効き目のある健康食品がいっしょになっているのが、いまも昔も変わらぬ健康食品業界の実態です。そのため健康食品といえば、どうしても「怪しげなもの」とみるのが医療の世界の常識となり、厚生省も「食品はすべて健康に役立つのであって、健康食品などという概念はどこにも存在しない」という基本姿勢に立って、薬事法を盾に健康食品を厳しく取り締まってきたのも仕方のないことでした。しかし、上手に用いれば薬以上にすぐれた効果を発揮する健康食品、効果が学問的にも確認された健康食品を、そうでないものといっしょにすることで、有効に活用しないとしたら、それは社会的に見て大きな損失であるといわねばなりません。そう考えた著者は1984年頃「健康、予防、食品」という新しい概念を導入し、「効果が科学的に確認できる健康食品に関しては国が認めたらどうか」という案を、厚生省や業界に提出したのですが、結果的にこの案は規制が増えると思われてMOSS(市場重視型個別協議)の場でアメリカの圧力で流れてしまったのです。しかし、その後になって健康食品は次第に認知されるようになり、いまでは厚生省も積極的な姿勢を見せ始めています。健康食品に替わる「特定保健用食品」という概念を打ち出し、一定の基準をクリアーしたものに対しては、「腸内の環境を整える」「便通を改善する」といった程度の効能・効果ならうたってもいいという方針をしめしたのは画期的な進歩といえます。
 そういうわけで、近年になって、やっと健康食品が公的にもその存在価値を認められる時代が巡ってきているわけです。だが、「健康食品」と名がつけば何でも認められるというものではない。まやかしの健康食品は排除し、本当に効果の有るものを育成しようというのが厚生省の狙いであり、見方によっては、これも国による新たな規制といえないこともありません。現実の健康食品業界は玉石混交で本当によいものもあるけれど、なかには利益を優先させて、本当に健康に役立つか不明なものも少なくない。この点は業界関係者も姿勢を正してもらう必要があります。
 著者はかねがね、治療だけが医ではなく、看護や介護、それに健康食品という分野も含めて医である、という考え方に立ってきました。治療だけが医であり、医者だけが医療従事者とする時代は過去のものであり、これからはトータルに医をとらえなければ立ち行かなくなる時代がやってきます。そういう立場に立って考えてきたからこそ、これまでもずっと健康食品を重視してきたのですが、健康食品業界が現状のままだったら、日本の医療の将来は厳しいものにならざるをえない。その意味でも業界関係者には、国民の医療を担う一員としての自覚を持っていただきたいと願っているのです。同時に消費者は、もっと自分の健康管理ということを真剣に考えなければなりません。たとえば病気になれば病院へ行けばいいとか、薬を買ってきて飲めばいいという単純な考え方で健康は守れない。セルフメディケーションの大切さというものを十分認識して、体調を維持する方法を学ぶ必要があります。
 生体防御力からいえば、いちばん最初にくるのは日々の暮らし方であり、そのカギを握っているのが食生活です。次ぎがライフスタイルで、これにはストレス対策がからんできます。



多田富雄著、新潮社刊、「生命の意味論」より)

 心とか意識といったものを、生物学の対象として「身体化」して考えるというのは現代生物学のまぎれもない趨勢であるし、私たちの精神的「自己」というものも、有限の神経細胞が神経突起を介してネットワークを形成している脳という臓器の活動によって生み出されていることに、異論はないであろう。
 脳神経系の発生も、免疫系の発生と同じく、単一な細胞の自己複製から始まり、多様化や自己適応、内部情報をもとにした自己組織化によって成立するスーパーシステムであることがわかる。脳の回路形成でも適応と選択、後天的な淘汰がおこっているのである。
 脳を作り出す遺伝子のプログラムはといえば、神経細胞の位置や放射の方向などを決めて脳の基本構造を拘束することはできるが、ひとつひとつの神経繊維の結合までは規定してはいない。したがって、神経細胞の選択と淘汰による回路網の形成は、遺伝的には決められない個体レベルでの脳の多様性を持つようになるとされている。さらに脳神経系は、外界からの刺激に応じて神経突起の結合(シナプス)の数や強さをかえ、経験を積んで学習し、記憶し、個性を作り出してゆく。
 
ここで明らかにされつつあるのは、「心」といって実体のないものが、明らかに実体として存在する脳神経細胞によって作られた回路網の活動を通して作り出されるものであって、「自己意識」も「愛」も決してその例外ではないことである。その点で哲学は、ようやく「精神」と「身体」という二元論から、「精神の身体化」という明確な一元論に回帰しつつあると著者は思う。養老孟司氏は、現代文明の「脳化」ということをいわれるが、著者はむしろ脳という特殊な臓器を超えて、人間の心の「身体化」ということがまぎれもなく起こっていると思うのである。しかし、こうして考えている著者も、また著者の意識存在も、数100億個ていどのニューロンの活動の総体と考えた上で、何の怖れもためらいもないということは、逆に脳という臓器が高度に発達したコンピューターなどという工学的システムをはるかに超えた超(スーパー)システムであるという認識があるからである。いまのところ、コンピューターをどれほど組み合わせても心はできない。脳は明らかにコンピューターを超えているが、どのように超えたかについては、明確な設問さえなされていないのだ。心の「身体化」は、決して心をおとしめるものでなく、身体が心ほどの無限の可能性を宿すことができることを示すものであろう。また脳がスーパーシステムとして機械を超えるところから、意味とか価値といった工学的生産以上のものが生まれてくると考えることもできる。こうした観点に立てば、心もまた進化し続ける身体現象であるし、それが達成しようとしている文化現象も生命活動として眺めることができるはずである。


心(2)
(高田明和著、角川ソフィア文庫、「ストレスがもたらす病気のメカニズム」より)

 心が脳(神経)と同じかどうかは、哲学的にも宗教的にも大問題で、古来人々が議論を続けてきたところです。
 現在では脳と心について二つの流れがあります。一つはデカルト派で、我々は結局心と脳の関係を理解できないのだという考え方をする人たちです。もう一つの流れは現実派ともいうべきものです。彼らによれば、心は脳の働きにすぎないということになります。つまり神経化学が進歩し、電気生理学における電極がより微細化し、データがコンピューターにより高度に分析されるようになれば、心は脳の機能の”あらわれ”として理解されるはずだという考え方です。
 現在の科学を学んだ人々にとって、デカルトの考え方は神経の科学的研究成果に基づかない、空理空論に聞こえるかもしれません。心が脳の各部分の働きによる、したがって脳を科学的に解明すれば心の本体に迫りうるという希望を与えたのは、後述するペンフィールドの実験です。しかし最近の研究成果ではかならずしもこの希望がかなえられるような方向がつかめていません。
 ジョージタウン大学医学部神経科のレスタック教授は「最近の脳科学の研究結果を見ると、脳を分析し”不可知な心”を追い出しても精神の働きは十分研究できるとしている現在の精神生物学者より、デカルトの方がはるかに進んでいると思うことがしばしばである」と述べています。
 その例としてあげてあることを述べてみましょう。カナダの脳外科医ヴィルダー・ペンフィールドは、脳手術の際、大脳の表面のいろいろな所に電極をあてて電気刺激をして、患者の反応を見ました。すると側頭葉という脳の横の方にあてると、体の一部が突然動いたのです。
 患者は「自分のまわりに起こっていることは以前経験したことがあるような気がする」と言ったり、「今起こっていることは外科医による電極からの刺激によっているのだ」ということをよく理解していました。つまり脳のどこを刺激しても、「自分」はそこが刺激されていてある種の行動、ある種の感覚を引き起こされているということを知っていたのです。
 ペンフィールドは、「脳に電極をあてて刺激すると、電極の下にはいろいろな事件を記録している記録器のようなものがあると感ぜざるをえない。しかもこの記録器は脳全体の作用としか考えられない」と書いています。つまり脳の各部分を調べてもこの座はわからず、結局心は脳全体の作用だということになってしまうのです。現在では一応、宗教でいうものを「心」とし、科学でいうものを「精神」と分けて説明するのがふつうです。


コーデックス規格
食生活研究会編、農文協刊、「見分けて選ぶ輸入食品Q&A100」より)

 コーデックス規格とは、消費者の保護と公正な貿易の促進を目的とした食品の国際規格のことで、コーデックス委員会でつくられます。コーデックス委員会というのは、国連食糧農業機関(FAO)と世界保健機関(WHO)が1962年から合同で運営し、国際貿易上重要な食品の規格を策定する組織で、現在153カ国が加盟、日本は1966年に加盟しています。
 国際規格をつくることが消費者保護や貿易の促進にどうつながるのでしょうか。たとえば法制度が整っていない国で、データを集めて法律をつくったり細かい検査の必要な規格をつくったりすることができない場合、結果として消費者の健康や安全を守れないことになります。そこで、一定の基準を示し、どの国でも規格をつくることができるようにして安全を確保しようとするものです。また、コーデックス規格を満たす食品は各国で自由に流通できるようにして、貿易の促進につなげます。
 規格は2年に1回開かれる委員会で関係各国が意見を出し、専門家へ諮問するなど時間をかけて検討します。委員会で3回は検討するので規格ができるまで最低でも4年かかります。現在242の規格、23のガイドライン・残留農薬基準などが作成されています。コーデックス規格は、食品の品質、安全、表示、通関手続き、製造工程の管理規定などすべてを含んでいます。
 コーデックス規格は、各国に採用を勧告はしますが強制ではありません。しかしWTO(世界貿易機関)加盟国は、TBT協定(貿易の技術的障害に関する協定)とSPS協定(衛生植物検疫措置の適用に関する協定)により国内で規格をつくるときは、科学的な正当性が立証でき、関係諸国を説得できれば、その国独自の規格をつくることはできますが、その品目がコーデックス規格にあれば基本的にはそれを基準にすることが義務づけられています。
 コーデックス規格より厳しい規格は、貿易上非関税障壁とみなされつくることはできません。日本でもJAS規格をつくるときはコーデックス規格を基礎にします。TBT協定はすべての機関が対象ですから、国だけではなく自治体の条例までも対象になります。
 多くの食品が世界中に流通する今の時代、共通の規格は必要ですし、コーデックス規格はたしかに貿易の促進に貢献している思います。しかし、何も問題がないわけではありません。規格策定がはたして公正になされているか、声の大きな国の意見に左右されていないか、私たちの納得できる安全基準が守られているかなど、食糧輸入大国であるわが国にとって、「国際化」という名のもとに食品の安全基準を諸外国と合わせる事に不安をおぼえずにはいられません。今年(1997年)豆腐やパンなどの食品に期限表示と製造年月日併記を義務付けていたいくつかの自治体が、条例を改正し期限表示に一本化しましたが、これもWTO協定を理由にした、国の強い指導です。
 現在、コーデックス委員会では有機農産物や栄養表示、遺伝子組み換え食品などの表示について検討が続いています。農林水産省も積極的に日本の意見をコーデックス規格に反映したいと考えているようですし、委員会では個人や消費者団体、報道関係などの傍聴が自由です。
 コーデックス規格を私たちにとってよりよいものにするためには、食品の安全性について常に関心を持ち、発言し続けることです。そして、そのことがそのまま自分たちの「食」を守ることになるのではないでしょうか。



修行
関谷文吉著、中公文庫、「魚味礼讃」より)

 祖母は、どうしてわかるのか頑なに教えてくれなかったので、それが不満ではありましたが、それは口で言って教えられるたぐいのものではないことを百も承知だったからでしょう。私に教わる側としての意識が何も備わっていないのでは、教えられるはずもなかったのでしょう。「すし屋で一人前になるには何年かかるか」とよく聞かれますが、これほど個人差のあるものはなく、他の職種にもあてはまることでしょうが、要は教わる側の感性次第なのです。一たす一が二ばかりででなく、一たす一が五とも十とも理解できるようになるには、常に理解しようとする意識を鼓舞し続けねばならないのです。その意識が高ければ高いほど、教える側が何も言わなくても、あるいは一言いっただけで、眠っている池に投じた小石の波紋が池の隅々までゆきわたるように、何かを感じ取って、自ずと理解するようになるのです。そういった意味では、結局 <自分一人だけが自分の先生であり、同時に自分一人だけが自分の生徒である>ということを、祖母は私に教えようとしたに違いありません。しかし私にとって、祖母がこの <教えないことで教えている>のだとわかったのは、ずっと後のことでした。


消毒
立花隆著、講談社文庫、「文明の逆説 危機の時代の人間研究」より)

 赤ん坊には、さまざまのベビイ用品が必要である。驚いたのはそれらがいちいち可能な限り消毒されていることである。赤ん坊の育て方の解説書を読むと消毒の意義が縷縷解説してある。例えば、オッパイを飲ませる前には、消毒綿で乳首を消毒しろというが如く。
 恐ろしい世の中になったものだと思う。消毒の語源は、sterilization で sterile にするの意味だが、ステリルは、もともと不妊、不毛の意味である。ステリルな土地は荒地。セテリルな年は凶作の年の意である。一口に言えば生命の果実をもたらさないとでもいえばよかろう。
 もともとすべてのステリルな状態は、生命体である人間にとって、災禍、不幸、忌避すべきものを意味していたのである。それが殺菌、消毒を意味するときだけは、なにか願わしいものと取られるようになっている。我々の生活のいたるところ、殺菌と消毒が氾濫している。あらゆる食器は殺菌され、電話器や電車の吊革は定期的に消毒されている。
 そういった配慮が、公衆衛生の水準を高め、疫病の防止に役立っていることまで否定しようとは思わない。
 ただ、根本的なところで、思い違いをしているような気がする。つまり、殺菌・消毒の思想というのは、世の中には、人間にとって100%有害なものが存在していて、それを徹底的に撲滅することが望ましいという前提の上に立てられている。
 果たしてそうだろうか。エコロジーが教えるところは、生物界はすべての生物が、害虫もバイ菌も含めて、もちつもたれつの関係に立っているということだった。すでに害虫撲滅の試みが取り返しのつかない愚考だったことは明らかになっている。バイ菌撲滅が愚行であることも、次第に明らかになっている。無菌動物の研究や、人間の腸内細菌叢の研究などから、人間には空気や水がかけがえのないものであるのと同様に、バイ菌もかけがえのない環境の一部であることがわかってきた。生理学者はかなり以前から抗生物質などの乱用に警告を発している。
 害虫撲滅の結果は、サイレント・スプリングとして、人類に災禍をもたらした。バイ菌撲滅の結果は、まだ潜伏期である。しかし、その具体的な発現は、想像以上に恐ろしいものになると思われる。そうなったときはじめて、やはりステリルなものはすべて、災禍であったのだと気づかれるだろう。
 敵もまた味方、毒もまた薬というのが我々の生きている世界で、ここでは敵を不毛にすることが我々自身を不毛にする。

 消毒の思想が蔓延しているのは、公衆衛生の世界ばかりではない。我々の世界のすみずみまでといっても過言ではない。
 やはり、社会という有機体が健康に生きるためには、適度の毒、適度のバイ菌が必要なのだ。そして、我々の子供を育てるにあたっては、肉体的にも精神的にも、適度の毒にふれさせてやることが、未来の社会を健康にすることになるのだ。真善美を教えるばかりが教育ではない。
 古言に、大人物を、清濁併せ呑むという。社会も同じであろう。消毒で露命を保った社会は大社会とはいえない。消毒はすべからく手抜きでいくのが健康的である。


進化
カール・セーガン、アン・ドルーヤン著、朝日文庫、「はるかな記憶」より)

 いくらかの犠牲を払いつつも、複写の際に生じる不完全さを逆用する。これが、生物進化の原動力となる。生物が望んでそうなったのではない。万物創造に当たった神がそうしたとも思えない。突然変異は基本計画もなく、誰からの指示も受けないのが特徴である。無秩序に起きる突然変異は、冷酷とさえ見える。進化というメリットがあるにせよ、それは気の遠くなるほどゆったりとした速度でしか進行しない。新たに起きた突然変異によって、生活上の適応力を欠くようになった生物はすべて、進化の過程で消えていく。たとえば、跳べなくなったコオロギ、いじけた羽しかない鳥、息切ればかりしているイルカ、日光のもとでは枯れてしまうニレの木……。もっと効率的で温和な突然変異はないものか? なぜ、マラリアの耐性を得ることが、貧血という罰を伴う必要があるのか? 行き先のはっきりした、冷酷でない形式の進化があったらいいと、誰もが思う。しかし進化には長期的な見通しなどないし、「終わり」も想定されていない。終わろうという気さえない。その意味で、進化は人間が持つ「技術」とは対極にある。生命の本質は、気まぐれで、盲目的なのである。「正義」などというものとは、はなから無縁なのだ。進化は、もともとが、大多数の犠牲の上に成り立つものなのだ。

 有利な突然変異というのはまったに起きるものではないから、迅速な変化が求められるときには、変異の率を上げて対処するのが手っとり早い。こうした状況下では、突然変異の原因をつくる遺伝子は、変異のメニューの幅を広げ、適応をより速める方向へ自らを淘汰していくことになる。そうした遺伝子は、何も特別なものではない。代表的な例が、通常は校正をしている遺伝子自体である。修復がされなくなると、突然変異の率は上昇する。DNAを忠実に複製するための酵素であるDNAポリメラーゼにも同じことがいえる。この遺伝子がだめになることはそのまま、変異率の急上昇を意味する。AをG、CをT、GをA、TをCに換える働きを持つ遺伝子、ACGT配列を部分的に欠損させてしまう遺伝子、塩基の位置が変わってしまうフレームシフトという現象を起こす遺伝子などもある。通常なら三個一組で読まれる核酸塩基の遺伝暗号がズレてしまえば、その「意味」も変わってしまうのだ。
 何とも驚くべき能力である。しかも、体制のごく簡単な微生物にまでその能力がある。周囲の環境が安定しているときには、増殖の正確さが求められる。しかし、いったん外界に危機を感じると、新たな遺伝的変異を次々につくる。まるで微生物が、周囲に起きた異常に気付いているかのようである。彼らには「こうしたい」などという考えは微塵もない。ただ、たまたまその環境に合う遺伝子を持つものが生き残っていくだけだ。穏やかな安定期が戻ってくると、活発に働きを見せていた、変異を起こすための遺伝子は死に絶える。負の淘汰を受けるのである。めまぐるしい変化の時代には必要だった不安定な遺伝子もまた同じように消えていく。自然淘汰は、一連の複雑な分子化学的反応をひき起こす。それが、表面上は、熟練した分子生物学者の存在を連想させる予知能力と知性に見えるのである。しかし、そこで実際に起きているのは、外部環境の変化に歩調を合わせて起きる突然変異とその増殖でしかない。 


人生
(坂口安吾著、「デカダン文学論」より)

 もとより人間は思いどおりに生活できるものではない。愛する人には愛されず、欲する物はわが手に入らず、手の中の玉は逃げ出し、希望の多くは仇夢で、人間の現実は努力するところに人間の生活があるのであり、夢は常にくずれるけれども、諦めやドウコクは、くずれ行く夢自体の事実の上にあり得るので、思惟として独立に存するものではない。人間はまず何よりも生活しなければならないもので、生活自体が考えるとき、始めて思想に肉体が宿る。生活自体が考えて、常に新たな発見と、それ自体の展開をもたらしてくれる。この誠実な苦悩と展開が常識的に悪であり堕落であっても、それを意とするには及ばない。


ストレス
末舛恵一著、PHP研究所刊「なぜ病気になるのか」より)

 心とからだの相関関係を、初めて医学的に解明したのは、1930年代に「ストレス学説」を提唱したカナダのハンス・セリエ博士であった。
 セリエの手柄は、本来の研究もさることながら、もともと機械工学などで用いられる物理学用語であった「ストレス」という言葉を、医学の世界に導入したことだろう。おかげで、今日、ストレスといえば「精神的な緊張や疲れ、ショック」を指すのだと、誰もが理解するようになった。ただし、厳密にいえば、ストレスとは「外部から加えられた圧力や緊張などによって生じた歪み」を指すのであって、圧力や緊張を与えるものは「ストレッサー」と呼ぶ。
 セリエは、私たちの心と体が、さまざまな刺激にさらされたときに起こる一連の防御反応を「汎適応症候群」と名付け、次ぎの三つの段階に分類した。
 突然、思いもよらない事態に見舞われたとき、私たちのからだはまず、体温低下、低血圧、低血糖、アシドーシス(血液が酸性に傾くこと)、胃酸の分泌過多による潰瘍や出血などショック症状をきたす(ショック相)。
 次ぎに、こうしたショック症状から立ち直るための防御反応として、脳下垂体の指令により副腎皮質からコルチゾールという副腎皮質ホルモンの分泌が高まり、体温や血圧、血糖値を回復させようとする(反ショック相)。
 ただし、コルチゾールは、こうしたはたらきをする一方で、私たちのからだを、がん細胞などから守る免疫機構のかなめであるリンパ球の機能を弱めてしまう。
 ここまでが、突発的なショックに対応するため、私たちの体が緊急非難的に行う防御反応の第一段階で、セリエは、これを「警告反応期」と名付けた。つまり、強いショックを受けた当初はこれにうまく適応できず、血の気が引いて青ざめたり、胃が痛くなったりする。そんな状態がおさまると、今度は頭にカッと血がのぼったり、からだが熱くなったりといった反応を起こす。ごくひらたくいえば、こうした防御反応が起こる時期を、警告反応期というのだと考えればよいだろう。
 最初の突発的なショックから立ち直り、心身ともにストレスへの対応に慣れてくると、警告反応期に続く第二段階として、「抵抗期」が訪れることになる。抵抗期は、ストレスと私たちのからだに備わった健康を維持しようというはたらき(ホメオスターシス=生体恒常性)のバランスがうまくとれている時期を指す。ただ、この抵抗期は自他ともに一見うまく適応しているようにみえても、実際には、辛うじてストレスとホメオスターシスがバランスを保っているに過ぎない。そんな状態を放置しておくと、やがて私たちのからだはストレッサーへの抵抗に疲労困憊し、ついには適応の限界を超え、雪崩をうつように「疲憊期(ひはいき)」という病的な状態にいたる。この疲憊期には、体温や血圧、血糖値などが下降するばかりか、リンパ球をはじめとする免疫細胞を産生する胸腺やリンパ器官、ホルモンを分泌する副腎皮質の機能がともに低下するため、生体にとってはまさに危機的な状況というほかない。したがって、精神的なストレスの原因となるような悩みや心配事を前向きに解決するよう努力し、疲憊期にいたらないよう対策を考える必要があるだろう。
 ただし、セリエは、このように精神的なストレスが生体におよぼす影響を生理学的な実験を通して立証したうえで、「ストレスは人生のスパイスである」と述べている。確かに、ストレスのない人生など、想像するだに味気なくつまらぬものであろう。
 そもそも、誰しも生きていく限りストレスとは無縁ではいられないのだから、むしろ、これを前向きにとらえて成長の糧とするほうが、よほど気がきいている。
 セリエはまた、ストレス反応が生体に好影響を与えるかどうかは、ストレッサーの強度と一人ひとりの適応力のどちらが大きいかによって決まると指摘した。つまりは、ストレッサーのほうが大きければ悪いストレス(ディストレス)になるし、逆に適応力のほうが大きければよいストレス(ユーストレス)になるというわけだ。


超システム
(スーパーシステム)
多田富雄著、新潮社刊、「生命の意味論」より)

 超システムという概念は、免疫系のような高次の生命活動を規定するための新造語で、その意味はまだ完結したものではない。その例として免疫系、脳神経系、個体発生などがあげられる。「自己」と「非自己」を識別し、「自己」の身体的同一性を維持する免疫系は、多種の細胞、それもひとつひとつの「非自己」に特異的な多様な認識分子を持つ細胞群とその遺伝子産物から構成される超システムのよい例である。免疫系のすべての細胞は、もともとは単一の造血幹細胞に由来する。したがって免疫系は後天的に「自己生成」してゆく超システムなのである。造血幹細胞はそれ自身では自己複製以外の何の働きも持っていないが、サイトカインや接着分子などを介した外的条件に応じて分化して多様なものを作り出し(自己多様化)、それまであった自己へ適応するために、新たに作り出された多様なものを選択淘汰し、それらを「自己組織化」することによって、完結したシステムを作り出す。「自己適応」による「自己組織化」というやり方では結果的には自己充足した「閉鎖構造」ができるはずだが、免疫系は自己適応に使った受容体をそのまま外部からの情報を受け取るアンテナとして使って、システム自身を調節し改変し、さまざまの外部にたいするアウトプットをつくりだす(閉鎖性と開放性)。このシステムの応答は、したがって「自己言及的」である。システムの意思は、上位からの指令によるのではなくて、システム自体が「自己決定」する。超システムは、したがって、通常の工学的システムと違って目的を持たない。自分を構成する要素自身を作り出し、その要素間の関係まで作り出しながら動的に発展してゆくシステムという意味で超システムという造語ができた。
 現代の科学は、その還元主義的解析能力を結集して、生命の機械的側面をめざましい勢いで解明しつつある。その結果明らかになるのは、当然ながら機械的側面に限られる。機械を超えた部分については、もともとの設問にはないのだから見えてくるはずがない。「超システム」という概念は、逆に設問そのものをたて直して、システムを超える生命の「技法」について考えてみようという試みであった。システムを超えるとはどういうことなのか、そこに内在するルールを考え、超えるための「技法」を解析の対象にすることはできないのかというのが著者の意図であった。


生体防御
野本亀久雄著、ダイヤモンド社刊「免疫力」より)

 生体防御、すなわち広義の免疫の仕組には大きく分けて三つの役割があります。
 その第一はウイルスや細菌などの病原性微生物が体内に侵入してきたとき、速やかにそれを排除する働きです。私たちは無数の細菌やウイルスに取り囲まれて暮らしていますが、それにもかかわらず元気に暮らしていられるのは、知らないところで初期防御系が働いて、それら外敵をやっつけてくれているからなのです。
 第二の働きは微生物以外の異物の排除です。私たちの免疫系は自己と非自己を見分ける能力を持っている。自己に対しては攻撃や排除はしないが、非自己はやっつけて体外に出そうとする。体の中に侵入してくるのは、何もウイルスや細菌ばかりではないので、この能力も非常に重要です。異物の排除でいちばん典型的なのは臓器移植の場合です。また、自己免疫系が誤って自己を攻撃してしまう場合もある。それが自己免疫病といわれるもので、慢性の関節リウマチなどは、そうした免疫系の誤判断の結果と考えられています。つまり免疫系をつねに正常レベルに保っていないと、細菌感染症が発生するだけではなく、間違って自己を攻撃するようなことも起きてくるということです。
 第三の働きは老廃した自己の細胞や不要となった細胞が出てきます。免疫細胞の場合は、できた細胞の90%以上がダメ細胞として除去の対象となります。そういう不要老廃物や損傷を受けた細胞を、生体防御系の細胞の一種であるマクロファージなどが食べて掃除をしてくれるのです。

 このような生体防御システムは、下等動物から人間まで、すべての生命体に何らかの形で備わっているものです。しかし植物には免疫系はありません。樹齢何百年、もの大木が微生物や昆虫に寄生されたとたん、いとも簡単に倒れてしまうのはそのためであるし、接ぎ木が比較的容易にできるのも、免疫系がないからです。免疫系がないということは拒絶反応がない。だから接ぎ木ができるのです。しかし、植物が外敵にまったく無防備かというと決してそうではない。さまざまなバリアーを設けて自分の身を守る仕組は、当然もっています。つまり植物にも生体防御システムはあるのです。
 ミミズやヒルなどの下等動物をみると、彼等は脊椎動物特有のリンパ球をもっていません。ということは人間のような免疫機能がないわけですが、それにもかかわらず彼等は私たちよりもずっと不潔な環境に生育しながら、脈々と種を保ち続けています。これはいったいなぜでしょうか。実はリンパ球をもたない彼等にもマクロファージのような異物を食べる細胞があり、これが侵入してくる外敵から身を守っているのです。免疫の発達史をたどると、免疫の主役たるリンパ球が出現するのはヤツメウナギからで、やがてサメのように進化した魚類になると、抗体をつくるB細胞も見られるようになり、人間まで進化が進むと、マクロファージからT細胞、B細胞とひととおり免疫系がそろうことになります。
 ところで、従来の免疫学は長い間、抗原抗体反応を研究の中心においてきました。たしかに免疫の典型はそこにあるのですが、病気になってからの免疫の働きや、病気が治っていくメカニズムだけがわかっても、なぜ病気が予防され健康が保たれているのかはわかりません。インフルエンザウイルスに感染しても、誰もが発病するわけではなく、およそ三分の二の人は、感染したことさえ気がつかずに終わっている。では、その人の生体内では何事も起きていないかといえば、そうではなく初期防御の段階まではきちんと行われ、それによって抗原抗体反応が起きる前にウイルスが排除されてしまっているのです。

 生体防御の第一段階は体表層です。すなわち私たちの皮膚や粘膜、ここが外敵侵入への第一バリアーとして存在しているのです。体表層のバリアーの最初は皮膚です。人間の皮膚は厚い細胞層からなり、細菌やウイルスの侵入を物理的に阻止する城壁のような役目をしています。ふつう皮膚には、表皮ブドウ球菌、黄色ブドウ球菌など常在菌とよばれる状態で十数種の細菌が生息しています。これらの菌のおかげで皮膚の表面はpH5程度の酸性に保たれ、病原菌の侵入を阻むようになっています。
 皮膚についで外敵の侵入を阻んでいるのは粘膜です。口、喉、目、鼻の内部、気管、肺、胃、腸管、尿道、チツなどは外界と接触する重要な防御バリアーです。これらの器官はそれぞれの場で外敵の侵入を阻止しています。たとえば口の中では、バクテリアを分解する酵素を含む唾液がバリアーに一役買っています。目では涙腺から出る涙が外敵を洗い流す。尿道では粘膜に付着する微生物を放尿といっしょに勢いよく流し出して尿道炎などの病気を防いでいます。腸の粘膜は外界と接触しているとは考えにくいかもしれませんが、胃や腸管の内壁面は外かた入る食物があることから考えても、明らかに外部との接触面です。このように全身のいたるところで侵入しようとする外敵を阻止しているのですが、その中でも肺と腸管がバリアーとしての働きがとても重要です。
 私たちが無意識のうちに口や鼻から吸い込んでいる空気には、細菌やウイルス、ゴミなどがまじっていて、それはひそかに体の中に侵入してきています。これら外敵の侵入を無制限に許していると、病気を発症することになりかねない。そのために呼吸器は酸素交換のほかに外敵侵入のバリアーとしての役割もはたしています。口や鼻から吸い込まれた空気に含まれる比較的大きな異物はまず鼻毛に捕まります。鼻毛で捕まらなかった異物も、そのほとんどは気管、気管支を通過する際、粘膜上皮細胞にとらえられ細胞の繊毛によって外へ外へと運ばれて、最後はタンとなって吐き出されることになります。ところがなかには、これもくぐり抜けて気管の終点である肺胞にまでたどりつくものもあります。細菌やウイルスがそうです。すると、肺胞にはマクロファージが待ち構えていて、空気といっしょに侵入してきた異物は捕まえられて食べられてしまいます。マクロファージは細菌でもウイルスでもゴミでも、侵入してきた異物はことごとく食べ尽くす。そうやって24時間、たえまなく肺を守っているのです。同じ食細胞の仲間に好中球というものもありますが、好中球は主に殺菌力が高く、マクロファージは食菌力が強いという違いがあります。ただし、細胞としての寿命は数年生きるものがある中で、好中球は一日ていどマクロファージも一日から数ヵ月とあまり長くないので、絶えず援軍を送り続けなくてはなりません。その援軍はすべて骨髄でつくられます。したがって、何かの原因で骨髄が損傷を受けると、マクロファージや好中球がつくられなくなり、肺胞が無防備状態になってしまうことになります。また、骨髄が損傷を受けなくても、体調を崩したり病気にかかったりして生体防御力が大きく低下するとやはり、マクロファージや好中球の援軍がとだえがちになります。ガン患者の多くが肺炎などの感染症を併発して、それが命取りになるのは、抗ガン剤によって骨髄がダメージを受け、好中球、マクロファージ、リンパ球などの生体防御に関与する細胞の製造がストップしてしまうからなのです。
 さて、もう一つの外界と接することの多い器官は腸管です。まず食べ物にまじって口から入った細菌類は、胃に到達した段階で胃酸によって攻撃されます。胃酸はpH1〜2という強烈な酸性なので、ほとんどの細菌はここで死滅することになります。こわいコレラ菌や赤痢菌も胃酸にはやられてしまいます。胃が丈夫で胃酸が正常に分泌しているかぎり、赤痢菌やコレラ菌はそれほど恐れる必要はありません。逆に胃潰瘍で胃を取ってしまったような人は、そういう病気にかかりやすいといえます。しかし、いかに胃酸が強力であっても、胃酸の海をくぐり抜けてしまう細菌も少なくありません。食中毒を起こすサルモネラや大腸菌O-157などは、苦もなくくぐり抜けてしまいます。腸まで到達すると、そこは彼等にとって天国のようなもの。快適な温度と水分が用意され、十分な栄養もある。細菌が繁殖するには最高の環境、それが腸管なのです。ところで、人間の腸管には百種類、百兆個の腸内細菌が定住しています。これら腸内細菌は種類ごとに一定の場所に住み着いていて、顕微鏡で見ると、まるで細菌のお花畑のように見えるところから「腸内フローラ」と呼ばれています。腸内フローラの大部分は、ビフィズス菌など非病原性の細菌に占められ、彼等は「定住性の正常フローラ」、あるいは俗に「善玉菌」ともよばれています。定住性の正常フローラは、一般に人間の生体活動に必要なホルモンのような物質や健康回復物質を放出したり、消化を手助けしています。そしてまた、病原性の細菌、いわゆる「悪玉菌」の爆発的な増殖を抑えるという非常に重要な役割を担っています。彼等はそれぞれの種類によって集落をつくって定住していますが、とても縄張り意識が強く、新顔の細菌が侵入してくると、これを執拗に排撃する。それが結果的に人間の健康維持に役立っている。だから善玉菌は生体防御を維持する上で、欠かせないものの一つになっています。
 このように、腸管内においては、まず腸内フローラによって、外部から侵入した細菌類は排撃されますが、それだけではむろん不十分です。腸管のもつ機能の第一は栄養物の吸収にありますが、同時に腸管は細菌などの異物が腸壁を突破して体内へ侵入するのを防ぐ役割も果たしています。しかし、その防御システムは肺とは少し異なっています。肺ではマクロファージが食べてしまいましたが、腸管で同じことをされると困るからです。というのはマクロファージは貪欲で何でも食べますが、彼等に任せておくと細菌などの微生物ばかりか栄養分までも食べてしまう。肺と違って腸管内で求められるのは、敵と味方を識別する能力である。そこでマクロファージに代わって登場するのが免疫グロブリンという名の特別な抗体なのです。抗体、このミサイルはもともと生体防御の最後の段階で使われるのですが、そのミサイルが初期のバリアーである腸管内で特別に使われるのです。赤痢菌に対応する抗体は赤痢菌としか結合せず、それ以外の抗原が入ってきてもまったく反応しません。これを特異性と呼びますが、こういう性質があるから免疫グロブリンは巧みに敵と味方を識別できるわけで、栄養分など体内に入れてもいいものはそのまま通し、体内への侵入を許してはいけないものは抗体が結び付いて無毒化してしまうのです。

 体表層のバリアーで外敵を防御するのが生体の初期防御の第一段階とすると、そこを突破して体内に本格的に侵入してきた敵と戦うのが第二段階です。この段階では生体防御の主役は補体(血清タンパク質)やインターフェロン、好中球、マクロファージ、NK細胞などが務めます。
 第二段階では、殺菌力を発揮する好中球や殺し専門のNK細胞などが活躍し、異物の処理にあたります。ところがなかには、それでもバリアーを突破するものが出てきます。この第二段階のバリアーを突破したものにたいしては、いよいよ最後の砦である免疫系が出動することになります。
 一般に免疫とよばれるのは、いわば第三段階にいたってから始まる生体防衛行動ですが、この段階で主役になるのはT細胞とB細胞という二つのリンパ球です。

       
生物学
カール・セーガン、アン・ドルーヤン著、朝日文庫、「はるかな記憶」より)

 地球程度の大きさの惑星が四角ではなく球形をしていること、太陽程度の大きさの星が主として可視光線を放射していること、地球と同じ程度の表面温度や気圧を持つ天体では水が固体、液体、気体の三態を持っていること。こうしたことは、いくつかの初歩的な物理法則を知っていれば、容易に理解できる。それらは、偶然の所産などではない。出来事の順番、すなわち時間の経過とはとくに関係がなく、他の経路を経由しても同じことが起こりうる。物理学の信頼性は永久不変、その規則性はどこでも成り立つ。歴史の真実がうつろいやすく、流動的で、予測がほとんどできず、既知の自然法則によって決定づけることのできないのとは対照的である。歴史的な出来事の流れを秩序づけるのに大きな働きをするのは、むしろ「偶然」であるように思える。
 生物学の世界は、物理や化学よりも、言語や歴史に似ている。ヒトがそれぞれの手に五本の指を持っていること、ヒトの精子の横断面がミドリムシとよく似ていること……。こうしたことは、すべて過去の偶然を強く反映している。物理学におけるような単純な問題なら、法則性を見い出して、それを全宇宙どこへでも当てはめることが、言語学、歴史学、さらに生物学といったややこしい問題では、たとえそれを支配する法則があったとしても、人類の知性は、その存在を認識するまでにはいたっていない。とくに、調べていることが複雑で混沌としている場合、あまり遠い昔の場合、初期条件さえわからない場合はなおさらである。人類は、この「きまぐれな真実」を何とか公式化することで、その無知を補おうとする。その中にもいくらかの真実はあるのだろう。しかし、歴史や生命現象には、物理学にはありえない「記憶」という現象がある。人類には文化があり、教えられたことを思い出しながら行動する。生命は、前世代の適応の結果として増殖し続け、数十億年以前にまでさかのぼりうるDNAの配列を保持してきた。生物学とか歴史学とかいったものは、再生産されてきた出来事を推計的に認識するための有力な手段でしかないことを、われわれは十分にわかっている。


セーフガード
(中日新聞日曜版2001年2月18日「世界と日本 大図解シリーズ」より)

 Transitional Safeguard(TSG)の略。「緊急輸入制限措置」ともいう。特定製品の輸入が急増し、国内産業に重大な損害を与え、または与える恐れのあるような場合、国内産業を保護するために輸入を制限する措置。WTO協定で認められており、対象は鉱工業品と農作物。
 繊維製品については、1994年の繊維協定でルールが確立し、品目ごとに国内産業に被害があると政府が判断すれば、輸出国と2国間で協議したうえで発動する。
 日本はこれまで、発動に慎重だった。しかし、今夏の参院選を前に、業界の利益に敏感になっている自民党などが、発動に積極的な業界のサポートをしだしている。
 ただ、中国生産で利益を確保しているアパレル(既製服製造)や小売業にとっては、輸入量が制限されればかえって不利になる。業界の中でも、セーフガードの発動要請には意見が分かれている。
 日本の繊維・アパレル企業は、消費者の低価格志向を背景にここ数年間、生産拠点を人件費や設備費が安い海外に移してきた。その結果、2000年(推計)はニット製と布製の純衣料だけでも30億点以上を輸入し、前年比30%以上の増となる見込みだ。特に中国からの輸入は全体の約8割を占めており、2000年1−9月の輸入量は前年同期比39%プラスと急増。品目別では、スカーフが前年同期より80%伸びたほか、布製スカートが同76%増、ニット製オーバーコート類が同39%増など大幅に伸びている。
 輸入急増に危機感を募らせる日本の製造業者団体は、1999年11月に日本ニット工業組合連合会が「非常事態宣言」を表明したのを手始めに、政府・与党に対し、セーフガードの発動を求める動きが出ている。これを受け、昨年末に与党は輸入急増対策を、経済産業省は業界側が輸入規制措置を要請するのに必要な手続きの簡素化を、それぞれ打ち出した。
 一方、セーフガードが発動されれば輸入繊維製品の価格上昇は必至なだけに、消費者の反発も予想される。そのため、「輸入量規制は後ろ向きな話。中国生産で低価格を実現して人気の「ユニクロ」への八つ当たりに近い」(新美一正・日本総研主席研究員)と疑問を投げかける声もある。
 セーフガード発動を認められているWTO加盟国の中で、繊維製品に関連し米国は1995−98年に計28件の発動を要請した。また99年までにブラジル7件、コロンビアとアルゼンチンが各9件要請している。
 日本はこれまで、貿易黒字国という背景もあり発動した例はない。繊維業界は95年と96年の2回、繊維原材料で中国に対するセーフガード発動を要請したが、中国側が自主制限などの措置を取ったため発動されなかった。しかし最近、タオル、スカートなど11品目について、それぞれの業界団体が発動要請に向け検討を始めている。
 ただ、今回仮に業界が発動を求めても、「中国は輸出を自主規制する方向に進むのではないか」(前田勝之助・繊産連会長)との憶測もあり、「その方が日本にとっては好ましい」(同)との立場が一般的だ。
 ただしこの場合、中国政府が輸出量を各企業に割り当て、さらに国営企業を優先していくような圧力をかけることも考えられる。中国の企業を通して製品を作らざるをえなくなると、日本から中国に進出した企業は不利になる恐れがある。



大根足
辰巳浜子著、中公文庫「料理歳時記」より)

 東京地方には、かの有名な練馬大根なるものがありました。真っ白で太く、艶があって滑らかで、みずみずしい、よく人の口の端に出る「大根足」の響き、お若い方はこの言葉が嫌いです。著者も娘時代はこの言葉が大嫌いでしたが、今の著者はこの言葉こそ、若い女性の健康で溌剌とした状態を一言で言い表した若さにあふれた艶のある表現だと思うのです。「まあ失礼ね」といやがりなさるけれど、大根足といわれる時代がまこと人生の花、だれにも意識されない「たくわん足」になってしまってはミもフタもありません。見渡すかぎり畑だった練馬が住宅地に変わってしまって練馬大根の姿が消えると、大根足なるほほえましい言葉も忘れられていくでしょう。


耐性菌
NHK放送、「スーパー病原菌の脅威、揺らぐ抗生物質治療」より)

 タフツ大学、薬物耐性研究センター、スチュワート・レヴィー教授は「何故、耐性菌が次々と出現するのか、そしてそれはどのようにして抗生物質を無力化するのか」その答えを求めて30年間、耐性菌の研究に取り組んできました。
 耐性菌はレヴィー教授の予想をはるかに上回るスピードで現われ、ついに、VREのようなスーパー病原菌まで現われました。

 レヴィー教授談:「病原菌は、ピンの先に1億個もいるような小さなものです。小さすぎて目に見ることができないにもかかわらず、私たちはもう完全に解ったようなつもりになっていました。抗生物質で簡単に退治できると思っていたのです。しかし、病原菌の多くが抗生物質に耐えて、しぶとく生き残っていることが解ってきました。その方法は、実に賢明で巧妙です。それは、病原菌が生き残るために自然から与えられた力なのです。

 抗生物質と病原菌の闘いは、ペニシリンの登場に始まります。大量の負傷者が発生した第二次世界大戦、傷口から病原菌が侵入し、多くの兵士が命を落として行きました。戦争中に実用化されたペニシリンは、病原菌を確実に殺すその効果から「魔法の弾丸」と呼ばれました。ペニシリンをはじめ抗生物質の多くは、カビが作り出している物質です。
 ブドウ球菌を例にとると、ブドウ球菌のコロニーのなかに抗生物質を注入すると菌の壁が破裂して死んでいきます。病原菌は生存するために細胞壁を作ります。菌の中から放出されるアミノ酸を酵素がつかまえて細胞壁が作られていきます。ペニシリンはこのしくみを狂わせて菌を殺します。菌に近づいたペニシリンは、酵素がアミノ酸をつかまえる前に酵素の穴に入り込みます。すると酵素がアミノ酸をつかまえることができなくなり細胞壁は完成しません。病原菌は内部の圧力に耐え切れずやがて破裂して死ぬのです。
 ペニシリンは傷が元で命を落とすという恐怖から人類を開放しました。外科手術も感染を抑える特効薬の出現で大きく前進しました。
 しかし、病原菌の側も抗生物質に対し素早く反撃してきました。ペニシリン耐性黄色ブドウ球菌はペニシリン量産化のわずか4年後に発見されました。この菌は、それまでの菌にはないセンサーを備え、センサーがペニシリンに反応すると菌は猛烈な勢いで特殊な酵素を放出し始めます。この酵素は、まるで迎撃ミサイルのように、近づいてくるペニシリンを分解してしまうのです。
 耐性菌の出現に対して、今度は人類が科学の力で反撃しました。1960年、天然の物質だったペニシリンを人工的に改造した新たな抗生物質「メチシリン」が作り出されました。この抗生物質は、ペニシリンの分子に別の化学物質を付け加えたものです。耐性菌がペニシリンを迎撃するために放出する酵素は、特殊な形のメチシリンをとらえることができません。攻撃をかいくぐったメチシリンは細胞壁を形作る酵素にはうまくはまり込みます。菌は壁を作ることができず死んでしまいます。
 しかし、病原菌はまたも逆襲してきました。MRSA(メシチリン耐性黄色ブドウ球菌)が、メチシリンが世に出て、わずか1年後に出現したのです。メチシリンが入ることができたそれまでの菌の酵素の穴とは違い、MRSAの酵素は穴の形が狭く、メチシリンは入れません。この新しい酵素は、メチシリンを寄せ付けずにアミノ酸をつかまえ細胞壁を作ることができます。MRSAは人類が科学的に作った抗生物質をも無力化したのです。MRSAの増え方は驚異的なものでした。MRSAの混じったブドウ球菌の群れに抗生物質をかけると、耐性のない菌は死んでしまいます。生き残ったMRSAは養分を独り占めにし、急速に増殖します。抗生物質を使用すればするほど耐性菌だけがますます増えるのです。MRSAはまたたく間に世界中に拡がり、多くの人の命を奪いました。
 MRSAの被害が深刻になると、一つの抗生物質の存在がにわかに注目をあつめました。アメリカのある製薬会社が作り出した「バンコマイシン」です。作用が強くそれまであまり使用されなかった抗生物質でした。

 イーライ・リリー社、感染症研究部、ロビン・クーパー顧問談:「バンコマイシンは大砲のようなものだといわれていました。これにたよるのは、ほんとうに他になにも効かない場合に限られていました。バンコマイシンが効かなければ患者は死ぬしかないと言われたものです。」

 バンコマイシンは細胞壁を作るアミノ酸そのものにとりつきます。バンコマイシンにとりつかれたアミノ酸を酵素は捕まえることができません。これを防ぐには病原菌が自らの細胞構造の基本ともいうべきアミノ酸を変える以外になく、それは不可能と考えられました。1970年代、人類は病原菌との戦争に最終的に勝利したと確信しました。
 しかし、勝利の確信も人類の奢りにすぎなかったことが明らかになりました。1986年11月ロンドン郊外のダルウィッチ病院に新たな病原菌が現われたのです。病原菌は腎臓移植の手術を受けた後で、傷口の化膿と炎症に苦しむ患者の血液から検出されました。しかし、患者にはバンコマイシンが投与され病原菌の感染はありえないはずでした。

 ダルウィッチ病院、アン・アトリー医師談:「私たちはすぐに患者の血液を調べました。するとその中から腸の中にいる腸球菌によく似た不思議な菌が出てきたのです。しかも、バンコマイシンに耐性がありました。どの資料を見てもこんな菌のことはでていませんでした。私たちはまったく手探りの状態で治療を続けたのです。」

 この病院ではその後一年余りで、入院患者の間に次々と感染が拡がり、7人が死亡しました。この菌は、バンコマイシン耐性腸球菌、VREと名付けられました。VREは細胞構造の基本となるアミノ酸の一部を瞬時に別のものに変える能力を身に付けていました。この改造されたアミノ酸をバンコマイシンは捕まえることができません。攻撃をかわしたあと、VREはアミノ酸の改造された部分だけを切りはなし、細胞壁を作り上げていくのです。

 イーライ・リリー社、感染症研究部、ロビン・クーパー顧問談:「あんな耐性メカニズムが現われるとは誰も予想していませんでした。つまり、世界中の科学者がだれ一人として、病原菌にそんな事ができて、それほど賢いとは思っていなかったのです。人間がどんなに科学の粋を集めても、あのような耐性メカニズムを思いつくのはとても無理だったでしょう。

 VREはまたたく間に地球規模の感染症になりました。1986年、イギリスで発生した後、まずヨーロッパ大陸に拡がり、3年後にはアメリカ東部に出現しました。

耐性菌(2)
カール・セーガン、アン・ドルーヤン著、朝日文庫、「はるかな記憶」より)

 食物が十分にあれば、微生物は非常に素早く増殖する。だから、ある微生物をいったん貯蔵し、それをさらに検査しようと取り出すまでの間にも進化が起こる余地がある。細菌が抗生物質に対する抵抗力を「獲得」する速度は非常に速く、抗生剤には「繰り返し処方することを避けるように」との注意書きがついている。抗生物質が、新たな適応的突然変異を誘導することは普通はない。むしろ、自然淘汰への強力な刺激として作用するのである。抗生物質は、たまたま薬に抵抗性を持っていたごく一部の幸運な菌以外は、すべて殺してしまう。生き残る菌は、それまでは何らかの理由で競争に勝てなかった株である。細菌があっという間に薬剤耐性を獲得するという事実(昆虫類がDDTへの耐性を獲得することも同じである)からは、微生物の世界では、われわれの目に見えない形で、形態や化学的性質の信じられないほどの多様性が生み出され続けていることがわかる。寄生側と宿主側の延々と続く闘いがある。細菌と抗生物質の関係でいえば、さしずめ、新しい抗生物質を求めてやまない製薬会社と、抵抗性の株を生み続けることで旧来の弱い株に次々に置き換わっていく細菌との「闘い」ということになるのであろう。

耐性菌(3)
清水文七著、講談社ブルー・バックス、「ウイルスがわかる」より)

 プラスミドDNAは、細菌の染色体とは別に存在し、菌体内で宿主のコントロールの下で自己複製し、分裂に際しては次代の細胞に均等に分配されて維持されている、小さな環状二本鎖DNAである。このDNAは、細菌にとっては必ずしも必須な遺伝情報を持っているわけではないが、抗生物質(薬剤)耐性とか、金属耐性などに関連する遺伝子を持ち、宿主に有利になるような遺伝子として進化してきた。
 耐性菌のなかには、一剤に効かなくなったばかりでなく、同時に四剤、六剤に耐性を示すような多剤耐性菌が出現することに医療の現場でよく出会う。この多剤耐性の獲得のしかたは、菌の染色体の変異がつぎつぎに起こって、耐性菌が選択されたことによるとはとても考えられない。新しく開発される薬剤にすぐに耐性が付加されるのは、プラスミドの上に、これらの薬剤を失活させるようなタンパク質をコードする遺伝子を持ったトランスポゾンが挿入されたためであることが判明している。
 トランスポゾンとは、ある一定の構造を保ったまま染色体上を転移することのできる遺伝子単位のことで、その両端にある特有な繰り返し配列が、糊しろのような役目をして染色体との組み換えを起こしやすくし、そのために転移が容易となっている。多剤耐性菌のプラスミドを調べてみると、その中にカナマイシン、アンピシリン、クロラムフェニコールなどを失活させる遺伝子を持つおのおののトランスポゾンが挿入されているのがわかる。トランスポゾンは、別の染色体への転移も可能である。このように遺伝子間を動き回る遺伝子は、細菌ばかりでなく酵母や植物の細胞でも知られている。
 薬剤耐性菌の研究によれば、はじめ抗生物質がよく効く赤痢菌に感染した患者でも、しばらくすると抗生物質が効かなくなってくる。また、その患者からは、同じ耐性パターンを持った大腸菌が分離されることがよくある。すなわち、患者の腸内で、大腸菌から赤痢菌へ耐性プラスミドが移ったのではないかと考えられる。
 実験室で、耐性菌と感受性菌とを混合培養すると、両方の菌の間で菌体表面にある線毛が接合してプラスミドが移動することが証明されている。おそらく、大腸菌が近縁の赤痢菌と接合したのであろう。


たきや漁
(1992年版、雄踏町勢要覧より)

 春から秋にかけての夜の浜名湖。水中灯を舳先にともし、モリを持ってカニや魚を突いたり、網でエビをすくったりするのがたきや漁です。このたきや漁は、遠浅がつづく浜名湖の形状をいかした独特の漁法です。1870年(明治3年)頃、浜名湖でたき火をしていた故加茂蔦蔵さんが、目の前によこぎっていく大きな魚を青竹で見事にしとめたことから始まったと言われ、その後、船を出して魚を突く方法が定着していきました。

1997.05.22 中日新聞夕刊「浜名湖のたきや漁」より)

 観光たきや漁の舟の料金:たきや漁の舟は旅館近くの桟橋まで送迎してくれる。1隻(4人まで)27,000円(午後7時-10時)シーズンは10月まで。獲物の調理希望は1隻ごと3,000円の別途料金。
 問い合わせ:雄踏町観光協会 TEL: 053-596-3216、浜名漁協雄踏支所 TEL: 053-592-1063、舞阪町観光協会 TEL: 053-592-0757
 


単位
井沢元彦著、小学館刊「逆説の日本史、封印された『倭』の謎」より)

 まず、日本(東洋)古来の単位というものは、すべて「人間中心」にできているということだ。これが、たとえばメートル法などと比べての根本的な違いである。
 たとえば1メートルとは、もともと子午線の4千万分の1の長さとして定められたものだった。つまり地球の大きさを基準にしたのである。また1グラムというのも、最も基本的な物質である「水」の1立法センチメートルの重さである。これは人間の外にある客観的な基準に、人間のほうから合わせていく、というやり方である。
 尺貫法は違う。たとえば「石」という単位がある。今では使っていないが、江戸時代は最もありふれた単位である。大名の格を表わす加賀百万石、伊達六十二万石という数字、あるいは旗本五千石、三千石という数字、今では一石が十斗であり百升であり千合であることを、知る人も少なくなった。もっとも一升ビン(1.8リットル)は今もよく使われているから、その百倍が一石であるというと、何となく見当がつくかもしれない。また、お米を炊く時の単位が一合であることも理解を助けるだろう。
 では、その「合」という単位はどうやって決めたのだろうか。ここで人間が一日に食べる米の量を考えてみる。一日二食として一回一合、これだと一日二合になる。少なすぎる気もするのでもう一合増やして、一日三合としようか、すると一年は360日だから、3合×360日で1080合となる。これは約一石(千合)だ。これは偶然の一致だろうか。実は違う。一石というのは一人の人間が一年(360日)に食べる米の量を基準にして定めた単位なのだ。もちろん働き盛りの若者はもっと食べるだろうが、あくまで子供や老人も含めた平均値ということだ。そして、これが人間中心の単位ということでもある。
 そして平均値ということで言えば、一反(面積の単位)の水田でとれる米の収穫量も一石である。というより逆に、一石の米がとれるだけの水田の広さを一反と定めたのだ、と考えた方がわかりやすい。だから通常は一反=300坪(一坪は3.3平方メートル)だが、東北では一反が300坪以上だったところもあるという。なを、一反=300坪になったのは、豊臣秀吉による太閤検地以後のこと、それ以前は一反=360坪だった。つまり一年は360日だから、一坪というのは人間一人の一日分の米がとれるだけの広さ、ということなのだ。
 さらに言えば、この一石の米を買えるだけの金が一両である。もっともこの数字は戦国から江戸時代にかけてインフレが激しく進行したしたために、後期では目安とならないこともある。
 また、歴史研究者の間でよく使われる公式(?)に、戦闘員の動員能力は「一万石につき250人」というのがある。つまり一万石というのは老若男女ひっくるめて一万人を一年間食わせていけるだけの農業生産があるということだが、その中で戦争に派遣できるのは、諸費用を含めると250人が限度ということだ。たとえば、織田信長の桶狭間の合戦で、敵方今川義元の軍勢は公称四万、実数は二万五千ぐらいだったとされている。戦闘員二万五千から逆算すると(250人=一万石だから)、義元は百万石の経済力を持っていたということになる。これは大体において義元の領土である駿河・遠江・三河の三か国の石高に一致する。
 また、先程から何度も「一年は360日」と言っているが、これはもちろん昔は太陰暦(月の満ち欠けの周期で作った暦)だからである。


中腸腺

 軟体動物と節足動物の中腸に開く複胞状または複管状の腺様組織で、暗緑色から暗褐色を呈することが多く、消化酵素を分泌して胃に送ることから、脊椎動物の肝臓と膵臓との機能をあわせもつという意味で肝膵臓ともよばれる。いわゆる「カニの味噌」はこれであるが、動物により構造にも機能にも差異がある。(岩波「生物学辞典 第2版」より)
 エビ類の中腸腺は一の袋に収まり、西洋ナシ型のまとまった形状をとるが、イセエビ、カニ類では分葉形状を示す。中腸腺の化学組成は脱皮周期と生殖周期とともに大きく変動する。中でも脂質の量的変動は著しく、そこには卵巣成熟に欠かせない卵黄前駆物質ビテロジェニンの合成機能も指摘されている。(橘高二郎他編「エビ・カニ類の増養殖」より)


テグス
司馬遼太郎著、「街道をゆく25、中国・ビンの道」より)

 魚釣りの釣り糸に用いる「テグス」は、「天蚕糸(あるいは天蚕綢)」
という字音の福建音からきたものだと私はおもっている。念のため「天蚕糸」の福建音は、陳舜臣夫人にきくと、ティ・ソン・スであるという。
以下のことについては『街道をゆく』の「明石海峡と淡路みち」(第七巻)で書いたが、樟とテグスの本場にきたために、ことさらに重複させる。
 この靱度(じんど)が高く、かつ透明感のつよい糸は、福建・広東という中国東南部においては、生薬の荷造り用の細ひもとして用いられていた。
 江戸期、中国は、日本に対する生薬の輸出国だった。江戸期の日本は、長崎港一ヵ所で幕府の管理貿易がおこなわれていたが、ここに荷おろしされた生薬(つまりは草根木皮)は、大坂の道修町に運ばれてきて選別され、諸国に販売された。船場の道修町というせまいブロックにはいまなお高名な製薬会杜が軒をならべているが、その歴史は戦国期の堺にはじまり、豊臣期から船場にうつった。
 江戸の初期か中期ごろ、阿波の堂ケ浦の漁師が大坂見物にきて道修町を歩いていると、狭い路上で小僧たちが荷ほどきをしていた。むろん、細ひもは捨てられる。漁師がそれを見て、
「このふしぎな糸で魚を釣れば、何倍にも釣れるだろう」
とつぶやき、店内に入って店主にそのことをいうと、店主はひざをたたき、いっそお前さん、瀬戸内のあちこちの浦に行って漁師たちにこの糸をひろめてきてくれまいか、あの人たちがよろこぶようなら、わしは生薬をやめて糸ばかりを輸入してもよい、といったという。
 この試みは、大成功し、当時のひとびとの食生活を変えた。たとえば海に面した大坂でさえ魚は干物か生乾きのものしか食べていなかったのに、テグスが使用されるようになって、鮮魚がふつうの家庭の食膳にあがるようになったといわれる。
 以上のことどもは、民俗学者の故宮本常一氏によって発掘されたものである。
 宮本常一氏は、昭和17年9月、兵庫明石の水産試験場でこのことを知り、その協力をえて淡路島のテグス加工の現場へゆき、さらに大阪へ足をのばし、西区奥美町のテグス問屋新井久兵衛商店と、同区阿波座の大藤商店をたずねた。前者は1714年の開業で、後者は1798年開業というふるい店である。むろんそのあたりは3年後の空襲で焼け、その後、テグスが化学的につくられるようになったから、店は絶えてしまっているのにちがいない。
 テグスというふしぎな糸は、福建・広東のカエデや樟(クスノキ)などにつく大きな蛾の幼虫から抽(ぬ)きとられる。虫を水につけて殺したあと、虫のなかから絹糸腺をとりだし、薄いすにつけたり、ひきのばしたり、陰千にしたりしてつくられるのである。
 特殊な蛾の大型のイモムシをながめていて、その中に糸のモトがあるだろうと考えた最初の福建人(?)はえらい人である。その糸を見てこれを魚釣りにつかおうと考えた堂ケ浦の漁師も、われわれの恩人といっていい。異国間の文化交流というのは、テグスのようであるのが理想のように思える。
 沿道の樟は、おりから新緑だった。二年ごしの葉がまだ雲のようにしげっているなかに、黄色っぽい若葉が湧きあがっている色合いは、樟の四季のなかでもっとも美しい。



司馬遼太郎・陳舜臣、文春文庫「対談 中国を考える」より)

司馬  ちょっとあいまいな言い方なんですけれど、天を崇拝するという思想は北アジアから来たのかも知れん。とてつもなく広漠とした大地の上にいないと、天というものは感じられないわけで、いまの中近東の砂漠で絶対神(ゴッド)がでてくるようにそういう地理的条件が必要のように思うんです。日本のように山川草木がちまちまと錯綜して、谷間の神様がいたり、峰の神様がいたりじゃ、絶対神は成立しにくい。しかし北アジアの草原にいると、簡単にわかるような感じがしますよね。
 それが華北地帯とのいろんな軍事的錯綜状況もあって、征服したりされたりで、華北に天というものが成立するのは紀元前何千年もの昔だから、想像するのもバカバカしいわけですけれども、少なくとも漢民族とアルタイ語族に共通しているのは、神聖なる天、というものがあるということだろうね。そういう天があれば、シャーマンの呪術性というのは単純化されてしまうわけで、思想性が強くなる。揚子江以南のように、風景に凹凸が多くてきれいなところでは、依然として道教の方がよろこばれるのだと思うけどね。
   道教は絶対神ではなくて、八百万(やおろず)の神みたいなものだからね。いろんな神様がでてきますもの。
司馬 ですから孔子のように、君子怪力乱神を語らず、しきりに天ということを考えている人間が出てくるのは華北からで、孔子がもし華南に生まれておればそうはならなかったように思える。
   そうですね。だから華南からは老子、荘子がでるんですね。
司馬 僕なんか無心論者のつもりでいるんだけど、それでも山奥の谷のどこかを歩いていると、不意にここに神がいるのかなと見わたしてしまう。たいてい、祠かなにかあって、だれでも感じるそういう場所の神秘性みたいな古代感覚をすこしは持っているらしいんだけど、中国の戦国の楚なんてのもそういう地形で、老子のいう谷神(こくしん)がいたんだな。谷神ハ死セズ、是を玄牝(げんぴん)ト謂フ、なんて華北の黄土地帯ではわかりにくいだろうな。


伝染病
多田富雄著、新潮社刊、「生命の意味論」より)

 人間の伝染病を眺めることによって浮かび上がってくるのは、DNA(ときにはRNAの形で)を介して成立している生物系の相互関係、すなわちDNA生態系の存在である。そこには宿主と寄生体という異なった生物種の間での想像を絶した共存と角逐があった。宿主と寄生体とは、互いに厳密な特異性を持った関係を形成しながら、一触即発の緊張のある生態系を構成していたのだ。環境のわずかな変化が、その生態系を変化させるそれが伝染病となって現われる。寄生体のDNAの変化に対して、宿主は自分の遺伝子を変化させて、多様な組織適合抗原を作ったり、適応的な抗体を合成したりして対処する。それに対して寄生体の方もしたたかに遺伝子を変えながら対応する。互いに死力をつくしたDNAの戦いが始まる。その平衡が大きく傾いたとき、伝染病の流行が表に現われる。エボラ出血熱、ラッサ熱、マールブルグ病など20世紀に入ってから世界に現われるようになった新たなウイルス病は、いずれもこの平衡関係の破綻によるものである。人間が熱帯樹林を切り倒し、動物の聖域に侵入する。そこでウイルスと共存していたサルを殺す。ウイルスは新たな宿主として否応無く人間を選び、それに適応しようとする。このようにシビアなDNAの共存と排除の生態系を考えると、食物連鎖による生態系などという平和思想はケチくさくて取るに足らぬように思えてくる。地球環境問題という時には、文明がDNAで成立している生態系にどんな影響を及ぼすかという観点からも考えてゆくべきであろう。DNAの生態系に、いま大きく介入してきたのが、エイズの病原体、HIVである。このウイルスは、人間のDNAの内部に入り込み、新たなやり方で人間の「自己」を破壊する。いまのところ人間のDNAはHIVに対処する方法を知らない。角逐は一方的にHIVの勝利に終わっている。その歴史は、まだ20年に過ぎない。


トンデモ話検出キット
(カール・セーガン著、新潮社刊「カール・セーガン科学と悪霊を語る」より)

 科学をするときには、まず実験結果やデータ、観察結果や測定値などの"事実"から出発することになるだろう。それから、事実に対する説明をできるだけたくさん考え出し、それぞれの説明に事実を突き合わせてみるのだ。科学者は、科学者として養成される過程で、"トンデモ話検出キット"を手に入れている。新しいアイディアが登場するたびに、科学者はこのキットを取り出して使ってみる。そしてそのアイディアが、キットに入っているさまざまな道具による検査をパスすれば、当面は温かく受け入れるのである。もしもあなたが〃トンデモ話〃に乗せられたくないなら(たとえそれがどんなに心休まる話でも)、消費者テストをクリアした実績ある方法を使ってみてはどうだろうか。
 では、そのキツトにはどんな道具が入っているのだろうか。入っているのは、懐疑的な思考をするための道具である。
 懐疑的思考とは、筋の通った議論を組み立てたり、それを理解したりするための手段である。わけても重要なのは、人を惑わすごまかしを見破ることだ。大切なのは、推論によって引き出された結論が気に入るかどうかではなく、その結論が、前提ないし出発点からきちんと導かれたものかどうか、そしてその前提が正しいかどうかなのである。
 次にそんな道具の例を挙げておこう。
●裏づけを取れ。「事実」が出されたら、独立な裏づけをできるだけたくさん取るようにしよう。
●議論のまな板にのせろ。証拠が出されたら、さまざまな観点をもつ人たちに、しっかりした根拠のある議論をしてもらおう。
●権威主義に陥るな。権威の言うことだからといって当てにしないこと。権威はこれまでもまちがいを犯してきたし、今後も犯すかもしれない。こう言えばわかりやすいだろう。「科学に権威はいない。せいぜい専門家がいるだけだ」
●仮説は複数立てろ。仮説は一つだけでなく、いくつも立ててみること。まだ説明のつかないことがあるなら、それが説明できそうな仮説をありったけ考え出そう。次に、こうやって得られた仮説を、かたっぱしから反証していく方法を考えよう。このダーウィン主義的な選択をくぐり抜けた仮説は、単なる思いつきの仮説にくらべて、正しい答えを与えてくれる見込みがずっと高いはずだ
●身びいきをするな。自分の出した仮説だからといって、あまり執着しないこと。仮説を出すことは、知識を手に入れるための一里塚にすぎない。なぜそのアイディアが好きなのかを自問してみよう。そして、ほかのアイディアと公平に比較しよう。そのアイディアを捨てるべき理由がないか探してみよう。あなたがそれをやらなければ、ほかの人がやるだろう。
●定量化しろ。尺度があって数値を出すことができれば、いくつもの仮説のなかから一つを選び出すことができる。あいまいで定性的なものには、いろいろな説明がつけられる。もちろん、定性的な問題のなかにも深めるべき真実はあるだろうが、真実を「つかむ」方がずっとやりがいがある。
●弱点を叩きだせ。論証が鎖のようにつながっていたら、鎖の輪の一つ一つがきちんと機能しているかどうかをチェツクすること。「ほとんど」ではなく、前提も含めて「すべての」輪がきちんと機能していなければならない。
●オッカムのかみそり。これは使い手のある直感法則で、こう教えてくれている。「データを同じぐらいうまく説明する仮説が二つあるなら、より単純な方の仮説を選べ」
●反証可能性。、仮説が出されたら、少なくとも原理的には反証可能かどうかを問うこと。反証できないような命題には、たいした価値はない。たとえば次のような壮大な仮説を考えてみよう。「われわれの宇宙とその内部の一切は、もっと大きな宇宙のなかの一個の素粒子(電子など)にすぎない」。だが、この宇宙の外からの情報が得られなければ、この仮説は反証不可能だ。主張は検証できるものでなければならない。筋金入りの懐疑派にも、推論の筋道がたどれなくてはならないし、実験を再現して検証できなければならないのだ。


成田漁港
食生活研究会編、農文協刊、「見分けて選ぶ輸入食品Q&A100」より)

 「輸出入貨物に係わる物流動向調査」(日本関税協会発行)に、1996年3月の一週間、航空輸入貨物の動向調査をしたものがあります。この間輸入された貨物のなかで第1位は、「魚介類および同調製品」です。利用空港は成田空港が68.7%、関西空港が22.3%と両港で91%、魚介類は新鮮さがなによりですからやはり東京、大阪という大消費地をひかえている両港が多くなっています。成田空港は別名「成田漁港」と呼ばれているくらいで、空港の「魚市場化」が定着しています。輸入先は台湾やインドネシアなどアジアが43%、オセアニア21%,アメリカ17%です。
 空輸はなんといっても運輸時間が短縮できるのが魅力です。たとえばエビなら夕方輸入して翌朝には市場に出せます。直行便なら時間の短縮が鮮度に生きてきます。成田空港では魚介類や野菜のほか、チーズや生ハム、フォアグラやキャビアなどの高級品が多く輸入されているのも特徴です。


博物学
(司馬遼太郎著、「中国・江南の道」より)

 道元が、天童山に入る許可をおりぬまま、寧波港に停泊中の船で起居していたとき、1人の老僧が、陽ざかりの道を歩いてはるか阿育王山から椎茸を買いにきた。倭船の重要舶載品のなかに干した椎茸があることは当時良く知られていた。このことは「越前の諸道」のくだりでふれたが、要するに道元はこの老僧に蒙を啓かれるのである。
 道元24歳、老僧61歳であった。阿育王山で雲水のためにかれは料理をする典座という役をつとめている。
 故郷は西蜀(四川省)である。その故郷を離れて40年になるという。若い道元は、40年も修行してまだ料理番をしているのか、と驚き、なぜ座禅修行にされないのです、とたずねた。老典座は大笑いし、
「外国のお若い方、あなたは本当の学問や修行が何であるか、まだおわかりになっていないようだ」
 といった。道元がわけをきいても、十分には諒解(りょうげ)できない。老僧は、
「わからなければ、阿育王山にきて修行しなさい」
 といって、帰った。
 道元が天童山に入って早々、この老典座がたずねてきてくれたのである。
「私も歳をとったから、故郷の西蜀に帰る。うわさに、あなたがこの天童山にいるときいてやってきたのだ」
 と、いった。道元は感激し、船中での問答をさらにくりかえすと、老典座は、
「料理や掃除のなかにも学問や修業がある。それどころか、全世界の現象のすべてが真理であり、かつ学問や修行の対象である」
 といった。道元は、いわば途ですれちがった程度の知り合いであるこの老典座について後年感謝をくりかえし、
 山僧(自分のこと)聊(いささか)文字を知り、弁道を了(れう)ずることは、乃(すなわち)彼の典座の大恩なり。(典座教訓)
 と言っている。


肥満
井上修二著、『ヒトはなぜ太る-遺伝か環境か』、
月刊誌「ニュートン」1997年7月号pp108-113より)

 肥満とは、単純な過剰体重ではなく、体脂肪の過剰蓄積をいう。正常体重者の活性組織は水分60%、タンパク質17%、灰分5%、体脂肪18%からなる。体脂肪が30%をこえると肥満である。しかし体脂肪の測定には、高価な装置や複雑な操作が必要で、容易には測定できない。そこで現在、肥満の目安とされているのが「ボディマス指数(BMI)」である。BMIは「体重(キロ)÷身長(メートル)÷身長(メートル)」で求められ、26.4以上は肥満と判定される。


PAV (RV-PJ)

 クルマエビの急性ウイルス血症(Penaeid Acute Viremia) の略記。従来はRV-PJ感染症(RV-PJは Rod-shaped unclear Virus of Penaeus japonicus :クルマエビの桿状DNAウイルス)と呼ばれていたが、その後、ウイルス分類国際委員会において、ウイルスの分類方法が変更されたのにともない名称が改められた。原因ウイルス名もPRDV(Penaeid rod-shaped DNA Virus:クルマエビの桿状DNAウイルス)となった。(月刊「養殖」、1996年8月号p.54より)
 PRDVに感染したクルマエビには潜砂行動の低下体色の異常(赤変、甲殻の白点)が認められる。これら異常個体の血液あるいは胃の上皮細胞を光学顕微鏡で暗視野観察し、PRDVの粒子あるいは感染核を検出する。本格的な診断は電顕観察によらなければならないが、薬剤による治療法はなく、罹病個体の殺処分、養成池施設および給排水の消毒といった対症療法的対策しかない。(橘高二郎他編「エビ・カニ類の増養殖」より)

PAV(2)
(高橋幸則他著、『クルマエビ類の急性ウイルス血症』月刊「養殖」1999年3月号より

 本病は、1993年頃からわが国を含むアジア諸国のエビ養殖場で発生し始め、現在も依然として猛威をふるっている。病名については、わが国ではクルマエビ類の急性ウイルス血症(PAV)と呼ばれているが、世界的には「White Spot Syndrome」または「White Spot Disease)が一般的である。本病の感染経路は、親から卵を介してポストラーバ(P10前後以降)への垂直感染と、ウイルスを持った野生の甲殻類および同居する養殖エビからの水平感染など多岐にわたっている。

[症状] 外観的には外骨格(殻)に小さな白点が無数に認められ、体色が赤変する個体もみられる。病理組織学的には、胃をはじめとするクチクラ層下の上皮細胞層、結合組織、リンパ様器官などにおける細胞の核の膨化と無構造化を特徴とする。

[原因] 原因ウイルスは、Penaeid Rod-shaped DNA Virus (PRDV) である。本ウイルスは直径111〜152nmの桿状でエンベロープ(ウイルスは遺伝子とそれを包むタンパク質からできており、ある種のウイルスはその本体を包む膜を持っていてそれをエンベロープ;envelope と呼ぶ)を有する。バキュロウイルス科か、その近縁のウイルスとされているが、分類学的位置は確定していない。

[対策] 種苗生産過程においては、PCR法によってPRDV陰性であることが確認された親エビの卵を用い、粘液などの有機物除去後に卵を低濃度のヨード液で消毒する。養殖段階では、塩素や乾燥による池の消毒および野生甲殻類の駆除後にエビを入れ、飼育海水は稚ガニなどの侵入防止用ネットを装着したパイプによって注水する。また免疫賦活物質によってエビの生体防御機能を高めておく方法や、PRDVのエビ細胞への吸着阻害物質(フコイダン)による予防法が試みられている。 

関連サイト

クルマエビ急性ウイルス血症(PAV)の原因ウイルスの解明と分離精製法の開発(水産庁養殖研究所の研究報告):病気のエビ、PRDVなどの画像もみられます。
White Spot Syndrome Baculovirus Complex of Penaeid Shrimp:「FISHERIES and OCEANS CANADA」のホームページにある水産生物の病気についての解説の一つ。
White Spot Syndrome Virus(WSSV):「NON-INDIGENOUS SPECIES IN THE GULF OF MEXICO ECOSYSTEM」のホームページの一部。ウイルスの写真と詳しい解説。


PCR法
(月刊「養殖」、1996年8月号pp.54-55 より)

 PCRはポリメラーゼ連鎖反応(Polymerase ChainReaction)の略で、遺伝子を増幅させる技術の一つ。種苗生産現場での応用例として、シマアジ親魚がSJNNV(ウイルス性神経壊死症の原因ウイルス)を保有しているか否かを判定するのに用いられている。
 ある魚がウイルスを保有しているかどうかを調べるためには、目的とするウイルスが増殖しうる細胞を用いて、ウイルスの分離・培養を行うやり方が一般的であるが、SJNNVについてはまだそれを培養しうる細胞が見つかっていない。しかし、SJNNVはその遺伝子の塩基配列が解析され、PCR法による遺伝子増幅技術が開発されたことにより、ウイルスそのものではなく、その遺伝子の有無によってウイルスの有無を判断することが可能となった。
 シマアジ親魚中ではウイルスの量(当該遺伝子の数)が少ないため、PCR法による遺伝子の増幅が必要となるのである。具体的には産卵直前の親魚の肛門から採取した卵巣もしくは精巣液を試料としてPCRが行われている。
 この方法が導入されたことで、シマアジの種苗生産においてウイルス性神経壊死症による被害は少なからず軽減されている。

PCR法(2)
(月刊「ニュートン」、1999年8月号別冊付録「生命科学がわかるキーワード100」より)

 少量のDNAを短時間で大量に増殖する方法。DNA鑑定を行う場合、解析には多量のDNAが必要になる。しかし犯罪捜査での犯人や被害者の特定などで、現場に残された髪の毛1本やわずかな血痕といったごく少量のDNAを含むサンプルからDNAを抽出しただけでは、解析には足りない。これを解決したのがPCR法である。PCR法は、DNA鑑定や遺伝子診断で欠かせない技術となっている。
 PCR法では、まずDNAに熱を加えて2本の鎖(くさり)に分ける。これに「プライマー」という短いDNAを加えて冷却すると、プライマーがDNAと結合する。これにDNAポリメラーゼという酵素を加えると、プライマー部分が出発点となってDNAが複製される。この「熱して冷却」という1サイクルでDNAは2倍になる。これを数十回くりかえすと、約1時間でDNAは数十億倍にふえる。この加熱・冷却を自動的に行う装置が開発されているので、非常に簡単かつ短時間でDNAを増幅できる。


フコイダン
(日本配合飼料の資料「フコイダン添加飼料」などより)

 モズクやカゴメコンブなど褐藻類のヌメリ物質を構成する粘液性多糖類としては、アルギン酸とフコイダンが主なものと考えられていて、フコイダンは、構成成分として、フコース、ガラクトース、マンノース、グルクロン酸、キシロース、硫酸などを含む非常に不均一な多糖分子群である硫酸化多糖類である。この硫酸化多糖類は医学の領域においてもウイルス感染の防御に役立つといわれている。
 フコイダンは、ウイルスのエンベロープ(ウイルスは、遺伝子とそれを包むタンパク質からできており、ある種のウイルスはその本体を包む膜を持っていてそれをエンベロープという)に付着することによって、ウイルスがエビの細胞に吸着するのを阻害し発病しにくくする。
 フコイダンの飼料への添加濃度とエビの生残率はきわめて高い相関がみられ、ウイルス病の発生の時期には、高濃度フコイダン添加飼料を給餌するなどの対応ができる。
 フコイダンは、ウイルスに直接作用することで予防ができる点、またフコイダンがオキナワモズクのような天然に生息している生物から抽出されたものであるので、摂取するクルマエビに対しても、また環境に対しても害が少ないのではないかと考えられる点が注目される。

関連サイト

クルマエビの急性ウイルス血症に対するフコイダンの予防効果(平成10年度日本魚病学会から):「大分県海洋水産研究センター」のホームページの「養魚情報」より
カゴメ昆布由来「フコイダン」の新規健康食品素材としての開発:「新技術情報提供サービス」のホームページより 


沸石(ゼオライト)
(「ゼオライト技研」のホームページより)

 ゼオライトは結晶中に空洞を数多くもつ多孔質の物質で、この特殊な構造、及びその構成成分により、さまざまな物質を結晶構造の中へ取り入れたり、或いは又、その結晶内物質と結晶外物質とを交換しあうという性質を持つ。然し、この天然ゼオライトも低温乾燥処理の段階では、ゼオライトの持つ特有の性質を十分にいかし切れない面が多い。
 ゼオライト構造の破壊をもたさらない程度の高温焼成処理によリ、天然ゼオライトの活性が十分にひきだされ興味ある効果が得られている。これは、ゼオライトの結晶水は、普通の構造水(OH基)とは異なり、水分子として存在するため、沸石水(zeoliticハ water)と呼ばれ、ある特定の温度以下の高温焼成処理をすることによって脱水しても構造は破壊されず、水分子があった個所はそのまま空洞として残り、ちょうど、スポンジかジャングルジムのような構造になり、この空洞にガスやイオンを吸収する特性があるためである。
 ゼオライトの化学組成はケイ酸塩のケイ素の一部がアルミニウムに置換された形の縮合酸塩でありSiO4―AlO4の連結四面体における三次元網目構造によるため、空洞を含む構造が形成され、その空洞、或いはその空洞が連結してできる孔路の中に、そのアニオン(陰イオン)と対応すべくカチオン(陽イオン)、更には結晶水が金属イオンの静電気的引力により存在している。骨格のケイ素とアルミニウムの比、又は陽イオンの種類、数等によって各種の構造のゼオライトが存在する。
 ゼオライトの一般的性質としては陽イオン交換能、分子フルイ作用、極性物質の吸着、触媒作用等が知られている。

 クリノゼオライトの吸着順列

 重金属>Fe・Al>Ca>Mg>K=NH4>Na>(−イオン=P、NO、S、Si)
 原子価の高いイオンは、低いイオンより、又は、同一原子価のイオンは原子量の大きいものが小さいものより吸着力は、強い。この吸着順列の逆が、作物の養分吸収の順列である。つまり作物は、生育段階でまず始めにりん酸を吸収し細胞を作り、窒素を吸収し成長し、加里を吸収し窒素の吸収を促進し、マグネシウムを吸収し光合成作用の増加を促進し、カルシウムを吸収し作物の形質を強化するという過程をたどる。


フード・ファディズム(Food Faddism)
(高橋久仁子著、講談社ブルーバックス、「『食べもの情報』ウソ・ホント、氾濫する情報を正しく読み取る」より)

 食と健康が密接に関連する----それは事実です。けれどもこれは、長期間にわたる食生活の状況が健康に反映されるということであって、特定の食べ物の摂取がすぐに体にどうのこうの、という話しではありません。
 しかしながら世の中には、ある食べ物や食品成分を、あたかも万能薬のようにうわさしたり、逆に毒であるかのように語りたがる風潮があります。「それを食べれば健康が保証される」とか「それを食べると健康を損ねる」というような思い込みは、食べ物本来の機能や役割を超えた期待や危惧であり、「食べ物信仰」とでもいうような状況が形作られているようです。
 この様な状況を整理するのに、フードファディズムという言葉が便利ではないかと思います。フードファディズムは「食物や栄養が健康や病気に与える影響を過大に信じたり評価すること」と定義され、これには「特定の食品を万能薬のように推奨することも、別な食品を有害物であるかのように排斥することも含まれます。日本ではあまりなじみのない言葉ですが、米国ではすでに1950年代にこの問題が取り上げられていました。
 このフードファディズムという用語を使って現代の食情報の混乱を考えると、いろいろなことが理解したすくなるのではないかと考えています。

 フードファディズムはだいたい次ぎの三つに分類できます。
1. 食品や食品成分に「薬効」を期待させ、「治療」に使う
2. 万能薬的効能をうたう目新らしい「食品」を流行させる
3. 食品を非常に単純に、体に「いい」「悪い」と決つける
 「1」に相当する例としては、精神疾患からガン、エイズにいたるあらゆる病気に、栄養所要量をはるかに超える大量のビタミンや無機質の摂取が有効とする「治療法」があります。また、それを食べさえすれば肥満、高血圧、糖尿病、高脂血症改善に有効、と宣伝する「食品」もこの類と言えましょう。健康、疲労回復、便秘解消や美しい肌、中高年には若返り、運動選手には筋肉増強効果や競技力の向上を約束する夢のような数々の「食品」もあります。また、特定の効能はうたわないものの、万病に効くような宣伝をおこなう「クロレラ」もここに分類したいと思います。
 「2」では1975年頃に「紅茶きのこ」、1988年頃に「酢大豆」、また、1994年頃に「野菜スープ」が爆発的に流行したことが思い出されます。この種のものが流行すると、必ず「◯◯は本当に体にいいんですか」と質問されることで、いまこんなものがはやっているのか、と気がつきます。どこで発祥し、どういう経緯で大流行するようになるのかわかりませんが、テレビや雑誌などのマスメディアが部分的に関与していると思われます。痩せられる、体の調子がよくなる、血圧が下がるなど、流行の最中はいろいろな効能がならべられるのですが、わりと短期間に流行が終わってしまうということは、それほどの効果はなかったということでしょうか。これからもまた新手の「流行食品」がきっと出てくるでしょう。
 「3」には、食生活の全体を見ることなく、一般論として食品を体に「いい」「悪い」と決めつけることのほか、いわゆる「自然食品」や「有機食品」を推奨することが含まれます。宗教や民族的習慣としてではなく、特定の食事形式(たとえば菜食主義)を推奨することもここに属するでしょう。「食事によって体液の性質が変わるから、食事の内容によって産まれる子供の性をどちらにもできる」という、「食事による産みわけ説」も、ここに分類しておきます。「悪い」とする食品を徹底的に非難、攻撃することも特徴です。「3」全体に「植物性」はいい、「動物性」は悪い、「自然」はいい、「人工」は悪い、という流れがあるようです。 


proPO
( 京都大学大学院農学研究科応用生物科学専攻 足立亨介(あだちこうすけ)さん私信より)

 proPOは現在カイコ、ハエ類、ザリガニ等を中心に研究が進められています。これら生物における研究から次のような性質が明らかになってきました。proPOはベンゼンに水酸基のついたフェノール類の酸化を触媒する酵素フェノールオキシダーゼ(Phenoloxidase:PO)の不活性型前駆体のことで血球細胞中に存在しますが、このままでは生理的な活性は持ちません。微生物等が生物体内に侵入することによりproPOは活性化してPOとなり(原因は後述します)フェノール類を酸化して、その酸化生成物であるメラニンを作る性質を持つようになります。このメラニンが微生物等に沈着することにより食細胞の貪食を促し、異物の排除に至るのです。
 ではいかにしてproPOがPOとなり、生物的に活性化した状態になるのか?というと、あるプロテアーゼ(タンパク質を切断する酵素)によってproPOの一部が切り取られることによるものであることが分かってきました。しかし、このプロテアーゼ自体もまた通常は不活性型にありタンパク質を切断する活性を持ちません。このプロテアーゼの活性化は微生物細胞壁上にある糖鎖が引き金になり何らかの因子がこれを認識し、プロテアーゼを活性化することが分かっているのですが、その詳細は不明のままです。そこで我々はこのプロテアーゼの活性化機構に着目して現在研究を進めています。


病気
(月刊「シンラ」1996年4月号p.134『南伸坊の免疫学個人授業、15回)』より)

 免疫学というものを少しかじると、まず「病気」というものの見方が変わってくる。病気というのは「病原体」のバイキンやウイルスが入ってくるからおこるのではない。なぜならば、バイキンやウイルスは、のべつ入ってきているからだ。入ってきたからって人間は病気にはならない。人間の体は、そのようにできていたのだった。病気を治していたのは、人間の体の中にある、治るしくみだったのだ。治るというより、いつもの状態に保つしくみ、自分以外の異物をみとめず、異物の入ってきたときは、それを排除するために、二重三重、十重八重のあの手この手をつかっていた、そのしくみだったのだ。それがつまり、免疫系である。
 おまじないや宗教で病気が治ったのは、それまでうまく働いていなかった免疫系を、なんらかのかたちで助けたからである。村中に泣いてもらって、痛みがしずまったのは、免疫系とは関係ないが、痛みを伝える神経と脳のしくみをついたもので、迷信でもインチキでもない。こうなると医者は病気を治さない。患者の治ろうとする力を助けているにすぎない。というのも、謙遜ではなく事実だとわかる。「病は気から」も「弱気は病気」も「クヨクヨはからだにわるい」も、実は本当のことである。これを、免疫学的にいうならば……
 免疫細胞のなかには、神経伝達物質のレセプターをもっているものがある。神経伝達物質とは神経細胞から神経細胞へとインパルスを伝えるもので、つまり「気分」の決定権をもっている物質だ。免疫細胞がこれのレセプターをもっているということは、免疫細胞と気分は、つながりをもっているということだ。ストレスがかかると、コーチゾルというストレスホルモンが増える。このストレスホルモンに免疫細胞はレセプターをもっている。つまり結合の可能性があるということで、これが結合すれば、相手の働きを抑えてしまうわけだ。免疫がストレスを抑えると言ってもいいし、ストレスによって、ほかの病原体に対しての免疫がおルスになるといってもいい。つまりストレスが多ければ病気になりやすい。ウツ状態の人も病気になりやすい。これは免疫系のうちのナチュラルキラー細胞が、低下するかららしい(らしいというのは、この関係の細部がわかっていないということで)。この相関は観察されている。つまり、神経系と免疫系には、密接な関係があるらしいのだ。となれば、今まで「なぐさめ」に使われていた迷信のようなセリフも、実は本当に「意味」があったのだということになる。


フロリダ型二統曳き漁法
(橘高二郎他編「エビ・カニ類の増養殖」より)

 クルマエビ類の多くの種類は大陸棚に生息して集群を形成するため底曳網漁業の対象である。ホワイトシュリンプ P. setiferus、ブラウンシュリンプ P. aztecus、ピンクシュリンプ P.duorarum のクルマエビ類を饒産するメキシコ湾では、船の左右に突き出したアウトリガーによって2統のオッタートロール網を曳くフロリダ型のエビトロールが操業している。このトロールの特徴は2統のトロール網の間、船尾にトライネット(try net)と称する軽量小型のオッタートロール網を備えていることであって、随時投網して短時間(5〜20分)の曳き網で漁獲物の組成、重量を調べ、本格的操業(30分〜2時間)の時機を見計っている。漁獲物は船上で対象のエビ類、商品価値のある大型魚類および雑魚類(trash fish) に分けられる。雑魚はフィッシュミールの原料となるが、魚食をあまり好まない地域では多くの場合、現場で遺棄されている。エビ底曳網が問題視されるのはかかる底魚資源に対する乱獲である。


ホメオスタシス
野本亀久雄著、ダイヤモンド社刊「免疫力」より)

 私たちはふだんから健康という言葉をよく使っていますが、生体防御の立場からいうと、健康とは「恒常性の維持」ということが行われてはじめて獲得できる状態なのです。恒常性とは、生体がさまざまな環境の変化に対応して、内部の状態を一定に保って生命を維持する現象で、一般に恒常性機能のことをホメオスタシスと呼んでいます。
 たとえば、暖かい部屋から寒い外へ出ると、私たちの体温は一時的に下がります。しかし、いくら外の温度が低くても、体の温度は際限なく下がったりはしません。これは体の中で体温を上昇させる機能が働くからです。暖かい部屋から戸外へ出て「寒い」と感じると、その刺激が交感神経に伝わって、脳にシグナルが送られる。すると脳の視床下部とよばれる部分からストレスホルモン(CRH;副腎皮質刺激ホルモン放出ホルモン)が分泌されます。このホルモンが脳の別の場所に送り出され、そこから今度は副腎に働くホルモンが分泌されます。これを受けて副腎からアドレナリンや副腎皮質ホルモンが分泌されると、脈拍、呼吸が早くなり体温が上昇するのです。こうして一時的に下がった体温は上昇し、一定の体温が保たれることになるのです。いわばこの復元力がホメオスタシスですが、あまりに刺激が強すぎるとこのメカニズムに狂いを生じ、健康を損なうことになってしまいます。
 たとえば、極端に寒い場所に身をおくとか、大きなケガ、強い恐怖や不安、こういうものに遭遇すると、アドレナリンや副腎皮質ホルモンが過剰に分泌して生体防御系の働きを低下させてしまいます。仕事、人間関係、天候、食事----私たちの心と体はたえず外界からさまざまな刺激を受け続けています。
 生きることとは刺激と反応によって成り立っている。問題はその刺激がどれくらい強いもので、またどれくらい連続的なものかなのです。適度の強さでかつ断続なものであれば、それらの刺激は心身を活性化させるプラスの要素として作用する。生体防御もその都度、戦闘準備態勢に入るので、いざというときの格好の訓練になってきます。
 それとは逆に、刺激が強すぎなおかつそれが持続的だと、心身のバランスを崩すマイナスの要素として作用するわけです。これがすなわちストレスであり、刺激の原因が精神的なものであれ、肉体的なものであれ、外部からの攻撃であれ、強くて持続的な刺激はホメオタシス低下の原因になります。


見るまえに跳べ
岡林信康アルバム第二集(URCレコード)

唄とギター:岡林信康
演奏:ハッピーエンド

1. 愛する人へ       詞曲 岡林信康
2. おまわりさんに捧げる唄 詞曲 岡林信康
3. 性と文化の革命     詞曲 岡林信康
4. 自由への長い旅     詞曲 岡林信康
5. 私たちの望むものは   詞曲 岡林信康
6. NHKに捧げる歌   詞 柏倉秀美 曲 早川義夫
7. 堕天使ロック      詞曲 つげ春乱
8. ロールオーバー倉之助  詞曲 早川義夫
9. ラブ・ゼネレーション  詞曲 早川義夫
10. 無用ノ介      詞 柏倉秀美 曲 早川義夫
11. 今日をこえて      詞曲 岡林信康


民族主義
カール・セーガン、アン・ドルーヤン著、朝日文庫、「はるかな記憶」より)

 35億年昔の生物が「内」と「外」や、「自」と「他」、あるいは「仲間」と「敵」といった区別ができたことは間違いない。ごく初歩的な形での自意識の誕生である。海の中に溶け込んでいる有機分子を食べる生物であれば、いずれは他の生物を形づくっている分子も食べるようになるになるに違いない。つまるところ、両者は同じ分子だからである。しかし、今度は自分を食べてしまうことのないように注意する必要が出てくる。原始的な生物に、他に対するあわれみや同情の心があるわけはない。外界を知ることができたとも考えにくい。それでも、生物は厳密な自他識別を行うように迫られる。たとえば、細胞の中にすみついた葉緑体に対しては何の感情があるわけではないとしても、もしそれを消化してしまえば、たちどころにトラブルに見舞われる。「自」と「他」の違いがわからず、消化酵素の分泌を制御することができないのなら、その生物が残せる子孫の数は知れている。そこには、実際は何の見通しも感情も入り込む余地はない。にもかかわらず、生物たちは、欲望や要求、好悪、情緒、気力、本能を備えているかのように振る舞い始めた。
 集団で暮らしている生物が、仲間の生物を食べてしまえば、自分も仲間も困る。獰猛で情け容赦ない肉食獣でも、親類や隣人に対してはお人好しでなければならないわけである。そこで、あなたは細胞膜の外側を、同種の識別に使うための化学物質で覆う。周囲から届く同種の分子を感じると、あなたは急にやさしくなる。その物質が「友達」あるいは「姉妹」という情報を伝えてくれるからからである。もちろん、他の情報を伝える物質もある。他と闘うための物質を常につくっているような細菌もある。いわゆる抗菌物質、自分自身や同じ系統の株には無害でも、系統の違う株や他の生物にとっては致死的な物質である。外部に対する敵意と、内部に対する協調。「自」と「他」の微妙な均衡は、こうして進化してきた。排他主義と民族主義は、こんなにも早い時期から兆していた。


無常
カール・セーガン、アン・ドルーヤン著、朝日文庫、「はるかな記憶」より)

 30億年前までに、生命は内陸の海の色を変化させた。20億年前までにには大気の組成を、10億年前までには天気と気候を、3億年余り前には土壌の地質を、そして過去2億〜3億年前には地球の外観を。これらの根本的な変化はすべて、われわれが「原始的」と考えがちな生命によって、そしてもちろん、われわれが「自然の」と表現する過程を通じてもたらされた。今や人間の技術文明が「自然の終わり」をもたらそうとしている、という懸念は、こうした大きな変化に比べればとるにたりないものである。われわれは多くの種を絶滅させている。自らをも絶滅させてしまいかねない。しかし、これは地球にとってみれば、何ら目新らしいことではない。地球の舞台では、ある種が主役となり、場面にいくらかの変更を加えて、登場している種のいくつかを葬り去り、その後自らも舞台を永遠に去る、ということが繰り返されてきた。人間はその中の現在の主役でしかない。次ぎの幕になれば、また新しい役者が登場する。地球はなおも続いていく。こんなことはすべて、かつても見られたことなのである。
 生命は上方を天に、下方を地獄のような地球内部に遮られた、ほんの薄い地表面に分布しているにすぎない。地球は、一日に一度自転し、一年に一度太陽の周りを回り、2億5000万年に一度銀河系の中心を回っている。この岩と金属の天体の深部には、大陸をつくりだしたり破壊したり、惑星磁場を生じさせる熱対流がある。地球は生命のことなど、何も気にかけてはいない。生命がなくなっても、地球は以前と同じように運動を続けていくことだろう。地球は無慈悲であり、その表面のごく狭い穏やかな部分を除けば、いかなる生命も受け入れようとしない。


免疫(1)
(岩波「生物学辞典 第2版」より)

英語: immunity

 本来はある特定の病原体、または毒素に対して個体が強い抵抗性を持つ状態をいう。広義には、生体の内部環境が外来性および内因性の異物によって撹乱されるのを防ぎ、生体の統一性と恒常性を維持するための機構をいう。外来の異物とは、細菌・ウイルス・菌・リッケチア・原虫・吸虫・線虫・などの内部寄生体、花粉をはじめとする多数のアレルゲン、人為的には輸血・移植・血清療法によって導入された細胞やタンパク質などである。内因性の異物とは、自己の老朽細胞、突然変異によって生じた異常細胞、細胞破片などである。これらの異物を排除するための機構として、先天性免疫獲得免疫(後天性免疫)がある。前者は全動物に備わっており食細胞がその主役である。後者は脊椎動物に特有であり、先天性免疫が対象間の違いを区別しないのに対し、対象(抗原)のそれぞれに特異的に反応する。狭義には免疫とは獲得免疫のことをいう。先天性免疫では、異物攻撃能力そのものが異物侵入以前にすでに分化しているが、獲得免疫では、そのような潜在能力をもった細胞群が分化しており、抗原の刺激によって、その抗原と特異的に反応しうる細胞群のみが、さらに増殖分化して機能細胞となる。この増殖分化の過程において、一部は記憶細胞として、その後のある期間にわたって存続するので、同じ抗原の再度の侵入には、初回の反応(一次応答)よりも強い反応(二次応答)が起こる(免疫記憶)。

免疫(2)
ジェームス・トレフィル著、講談社ブルーバックス「科学101の未解決問題」より)

 免疫系は、私たちを脅かすさまざまな外来のものから、私たちを守ってくれている。そして、免疫系でも、他のすべての生体のはたらきと同じように、究極的には分子の三次元的な形が重要な役割をはたしている。免疫系は、生物の歴史を考えれば何億年(4〜5億年)もかかって進化してきており、非常に複雑で、さまざまな側面を持っている。
 免疫系がどう働いているかについてのアウトラインは、すでにわかっている。しかし、これを詳しく説明しようとすることは難しい。というのは、からだの分子的なはたらきについての研究がまだ完全ではないからである。ひとつひとつの免疫の装置が、分子の結合によってはたらいていることを理解するのは容易である。しかし、免疫には多くの段階や過程があるので、どんな説明をしようとしても、神秘的な機能をもった奇妙な名前の分子が登場してきて、ふつうの人は煙に巻かれたような気分になってしまうのである。
 免疫反応の中で最も重要な過程は、からだにとっての「敵」(異物)を認識することである。敵といっても、侵入してくるウイルスから、がん化しはじめた自分自身の細胞まで、いろいろなものがある。
 防御の最前線の一つは、B細胞とよばれる一種の白血球である(ここではBは白血球がつくられる骨髄<bone marrow>をあらわしている)。B細胞は、その表面に異物を見分けるための受容体とよばれるタンパク質分子をもっている。これらの受容体分子を「かぎ」と見なすと、B細胞はかぎにちょうど合う「かぎ穴」の分子をもつ外来の物体をいつもさがしている。
 たとえば、ウイルスやバクテリアの外膜にあるタンパク質が、そのかぎ穴にあたるものである。B細胞はかぎ穴を見つけると、急速に自己増殖して「抗体」という分子を大量に生産し、分泌する。抗体というのは、B細胞のもつかぎと同じかぎをもった分子で、受容体が分泌型になったものである。抗体は、かぎ穴をもった外来の物体を見つけ次第、かぎ穴の分子と結合し、直接その機能を抑えてしまうか、免疫システムの他の構成要素を近寄せてかぎ穴をもった物体を壊させる。
 抗体は、寄せ木細工の木片のように多くの部分からなっている。そして、それらの部分(いずれもタンパク質の断片である)の組み合わせによって、非常に多くの種類のものがつくられる。ある評価によれば、ヒトの免疫システムは20億種類以上の異なるかぎをつくることができる。それぞれの人は、そのかぎのほとんどを実際には使っていないが、外から入ってくる可能性のあるあらゆるものに対処しようとして、じつに多種類のかぎを用意しているわけである。そして、一度ある異物(外来の物体)に出会い、それに対して特定の抗体(かぎ)がつくられると、B細胞はその記憶を保持しつづける。
 そこで、はしかのような病気に一度かかると、それに対処するためのシステムが増幅され、その記憶が残るために一生免疫ができる。またワクチンがうまくはたらくのもそのためである。しかし、場合によって最初の反応がしだいに弱まることもあり、そういう場合は何回もワクチンを打たねばならない。また、水ぼうそうのように、病気がのちに帯状疱疹のような形で再発することもある。


免疫と精神
(高田明和著、角川ソフィア文庫、「ストレスがもたらす病気のメカニズム」より)

 精神とガンや免疫に対する体の反応は、どのように解釈されるのでしょう。これは視床下部ー下垂体系のホルモンと免疫系との関係と、もう一つ自律神経系の関係により説明される部分とがあると思います。ストレスになると視床下部からコーチコトロピン放出ホルモンという因子が出されます。これにより下垂体前葉から副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)が出されます。このホルモンは、副腎皮質に作用してグルココーチコイドというステロイドホルモンを出させます。免疫反応に関係するT細胞は、このステロイドに大変敏感です。このホルモンはリンパ球を死滅させたり、T細胞が成熟するために必要な胸腺を萎縮させます。
 もう一つ大事なのは自律神経の関係です。自律神経にはノルアドレナリンを伝達物質にする交感神経系とアセチルコリンを伝達物質とする副交感神経系とがあります。ニューヨーク州立大学のブロック博士は、自律神経系の神経線維が脳幹、脊髄から胸腺に行っていることを示しました。ロチェスター大学のフェルトン博士は、自律神経系の神経線維が骨髄、リンパ組織、肝臓に行っていることを示しています。
 これらのことは、免疫系の反応が中枢神経、末梢神経を介して影響を受けていることを示しています。とくに最近では、リンパ球そのものが副腎皮質刺激ホルモンを出しているという報告もあるのです。つまり私達の精神状態により、外敵やガン細胞と闘う免疫系の作用は、強くも弱くもなるといえます。それどころではありません。ある場合には免疫反応を起こす物質が脳に強く作用することも知られています。免疫反応の際マクロファージから出されるインターロイキン1は、視床下部に作用して発熱させることが知られていますし、眠りを起こさせることも知られています。またリンパ球から出される一連の物質であるリンフォカインは、脳内の神経の興奮の指標であるインパルスの数を増やすことも知られています。
 以上述べましたように、私達の体の抵抗性というものは精神の影響を強く受けていますから、ある場合に民間療法や精神療法で病気が治ってしまうことは当然あると思われます。


楽天主義
カール・セーガン、アン・ドルーヤン著、朝日文庫、「はるかな記憶」より)

 外部の環境は刻々と変わっていく。恵まれた環境が爆発的な個体数増をひき起こすことがあるだろう。他の生物が進化してくることや地学的、天文学的な変化が起きることなども考えられる。だから、いかなる環境にも適応できる「永久不変の究極の姿」などというものは、初めからあるわけがない。その生物にとって有利でしかも安定した環境が続く場合を除けば、適応は終わりのない連鎖反応である。外から見れば、「生存競争」とか「より多くの子孫を残すための闘い」と見えても、生物自身がそれを感じることはない。
 進化の過程は、予知できるようなものでも、一定の目標を持ったものでもなく、偶然に場当たり的に進むものであることがわかっていただけたことと思う。分子レベルの進化だって、先を見越しているわけではない。黙々と一連の突然変異をつくり続け、たまたまその変異が元のものの「改良型」になっていることがあるだけのことである。誰も、真面目にものなど考えていない。生物自身も、環境も、地球も、そして造物主も……。
 こうした進化の「近視眼」的要素には危険もつきまとう。たとえば、今から1000年後に起きるかもしれない環境の変化(もちろん、それが本当に起きるかどうかは誰にもわかるはずがないのだが)に対して完璧な対応ができるはずの変異を、人類は次々に捨て去っている。しかし、人類は何とかそこまではたどりつくに違いない。「そのときになったら」というのが生命の基本戦略であるからには、きっと「何とかなる」のだろう。


ラブ・ゼネレーション
詞曲 早川義夫
       岡林信康アルバム第二集(URCレコード)「見るまえに跳べ」より        

僕らは何かをしはじめようと
生きているふりをしたくないために
時には死んだふりをしてみせる
時には死んだふりをしてみせるのだ      

しようと思えば空だって飛べる
そう思えるとき嬉しさのあまり
泣きながら飲めない酒をかわす
泣きながら飲めない酒をかわすのだ

信じたいために親も恋人をも
すべてあらゆる大きなものを疑うのだ

大人っていうのはもっとステキなんだ
子供の中に大人は生きてんだ

実はひとりになりたいゆえに
バカみたいにたくさんの人と話すのだ
僕らの言葉の奥には愛が
僕らの言葉の奥には愛がいっぱいある
ラララ‥‥‥


料理
(月刊「シンラ」1998年12月号pp.138-139、吉田真由美著脳科学最前線情報、24回』より)

 人間の理性を司る大脳新皮質の部分が十分に機能するためには、本能を司る脳幹や大脳辺縁系がうまく機能し、なおかつ両者の連絡が密に行われなければならない。食べるという行為が、人間の本能を満足させる為の重要な要素の一つであることは否めませんが、料理をするというのは、食べる行為以外にも、料理する過程において、人間の脳を満足させる為の様々な刺激を提供します。
 ストーブや湯気の熱と色、きざんだり撹拌したりジュージューと焼ける、またはグツグツと煮える音、魚やパイ生地の手触り、様々なスパイスや焼けるいい匂い、そばで手伝いたくてウズウズしている子供達の表情と歓声、……もう際限の無い程、多様で小さな刺激が織り混ざって、ひとつの「料理をする」という情景を生み出している訳です。
 この一つ一つの小さな刺激が、五感の記憶となって積み重なって行く。その記憶全体が、満足あるいは幸せの感覚となって静かに染み渡るのでありましょう。料理なしに同じだけの快い記憶を家族全員の脳内に作り出すのは、至難の技ではあるまいか。
 家庭(ホーム)という概念あるいは社会単位が崩壊しつつある現代、「手料理」などとは、何と時代錯誤な、という誠に表層的な反論を持つ人がいるかも知れない。そういう人は、人間の脳を満足させるためには、実にシンプルで基本的な行為こそが、最重要であるという事実を未だ知らないのでありましょう。


ワクチン
ジェームス・トレフィル著、講談社ブルーバックス「科学101の未解決問題」より)

 免疫システムのすべての部分(B細胞、T細胞、抗体など)は、その三次元的な分子構造によって機能している。つまり、免疫系の分子の形が侵入者の分子の形とうまく合致するために、その相手を認識することができる。そして、当面の闘いが終わったあとは、侵入者のかぎ穴と合うかぎを持ったB細胞やT細胞のいくつかは、ずっと血液循環の中にとどまっている。これらのいわゆる記憶細胞によって、次回以降の侵入に対して迅速な防御態勢を取ることができる。
 おたふくかぜやはしかのような病気に一度かかると一生免疫ができるのは、この記憶細胞のおかげである。
 今日、ワクチン技術の限界を三つの側面から突破しようという試みがなされている。
 1、免疫システムがはたらくメカニズムを理解するための基礎研究、
 2、現在存在しているワクチンを改良し、より多くの病気に対するワクチンを開発する研究、
 3、感染病による人口変動に対処するための政策的戦略、である。
 免疫システムのおもな特徴はすでに明らかになっているが、私たちの知識には大きな空白部分がある。免疫システムはとんでもなく複雑で、「なぜ、そして、どのようにして、分子Xは機能Yを行っているのだろうか?」というような疑問に答えられないことも多いのである。
 たとえば、ワクチン接種の目的は記憶細胞を作ることであるが、ワクチンによってどのように記憶細胞ができ、その記憶がどのくらいつづくのかについて、まだ議論が継続している段階である。
 この問題は、単なる好奇心というようなものではなく、それに答えることができれば、有効なワクチンの開発につながる本質的な疑問である。あるワクチンは、たしかに免疫反応を引き起こすが、長期の免疫がなかなか確立しないという場合もあるし、前にかかった病気によってかえって敏感になってしまうことさえ見られる。したがって、将来もっとよい方法を見い出すには、なぜワクチンがうまくいかないことがあるか、ということを理解しなければならない。
 免疫システムは、ときとして複数の侵入者のかぎ穴に対して、うまく合うことがある。天然痘ワクチンでは、それが起こったと考えられる。牛痘ウイルスのタンパク質は、天然痘ウイルスのタンパク質と非常によく似ていて、牛痘に対してつくられた記憶細胞が、天然痘に対してもはたらいてしまったのである。
 ワクチンに使うウイルスは、死んだウイルスであるが、表面にまだ免疫現象に本質的なタンパク質を提示しているようなものが用いられる。記憶細胞は、この死んだウイルスのタンパク質に対するかぎをもっていて、そのかぎは生きたウイルスに対しても攻撃する能力をもっているのである。
 とくに興味深い研究分野として、ウイルスやバクテリアの中の、免疫反応を引き起こすタンパク質を同定して、そのタンパク質を用いてワクチンを作る方法がある。また、これとは相補的な方法として、無害なウイルスタンパク質の中に、免疫反応引き起こすタンパク質の断片を挿入するという技術がある。
 ある特定のタンパク質に対する免疫反応のかぎをつくる技術は、実用化されれば、現在のワクチンのかかえる副作用や、危険性を取り除くことができる。死んだウイルスを用いて作った記憶細胞も、本来の侵入者である生きたウイルスを確実に攻撃する。しかし、ワクチンとしての死んだウイルスが思惑通りに死んでいない場合が有り得るので、何がしかの危険性がともなう。これに対して、タンパク質だけにしてしまえば、そのような危険はまったくなくなる。
 それにくわえて、免疫反応に関係して、もう一つの問題がある。免疫システムは、ふつう、侵入者のもつ多くのタンパク質を認識して、反応する。しかし、病気を発生させるのに決定的なのは、そのうちのある特定のタンパク質にすぎないということがある。侵入者のライフサイクルにとって本質的なタンパク質に照準を合わせてワクチンを作れば、これまでよりはるかに効果的なワクチンを得ることができると考えられるのである。


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