雑記帳


●ウチワサボテン
仙人掌

 海南島三亜の養殖場の周りには、垣根のように植栽されていたり、海岸のモクマオウ林の中にウチワサボテンがよく見られます。
 9月下旬から海南島へ行くようになり、その後1月までずっと花の咲いているのがみられ、下の写真のように実も付けています。
 下右の写真は花の中にバッタがいたので撮りました。

 ウチワサボテンの実は食べることができ、甘酸っぱく、水分豊富で私としては好きな部類の果物です。
 ただ、初めて食べたとき、実の外側についている針はとってから半分に割り、かぶりついたところ、舌がチクチクとして、針が刺さっていました。とりあえず、指でつまんで簡単に針を抜くことができたので、ホッとしました。
 かぶりついた時に外側に気がつかないような小さな針が残っていたのかと思いましたが、後で地元のスタッフに話したところ、内側にも針があるのだと教えてもらいました。下右の写真の矢印のところにあります。実の中にたくさんの種があるので、口にいれてモグモグしなくてはいけないのが幸いして、針を飲み込むことはなく、魚の骨のように喉に刺さっていたらやっかいだったろうと思います。
 実の赤い色素は強烈で、食べた後は口紅を塗ったように唇と手が紅く染まってしまいます。

 春節の観光シーズンに三亜の街中で観光客相手に1パック2個入りで30元(450円)で売っていたそうで、それはボッている価格だろうけど結構貴重品なんだろう。ちなみに、ジュースを飲むための椰子の実は1個2元が相場です。

 サボテンの本体の中身も皮をむいて食べてみましたが、水分は豊富でヌルヌルして苦くないアロエのような感じで、けっしておいしいものではありませんでした。こちらは料理して食べると聞きましたが、三亜のレストランで見かけたことはなく、今後の宿題です。(2003.02.27)

 小学館の「食材図典」によると、ウチワサボテンの果実は「ツーナ」と言うそうだ。以下食材図典より、

 ツーナ(カクタスペア)
サボテン科ウチワサボテン属
英名:Indian fig, Cactus pear
スペイン・メキシコ名:Tuna
フランス名:Figue de Barbarie

 熱帯アメリカ原産。果物として利用するウチワサボテン属の果実を広くツーナと呼ぶ。果実は果頂部が平たく、長さ5〜8cm。果皮には一般に束状の刺が点在する。のこ屑と果実を混ぜ、コンクリートミキサーのように回転させて刺を除き、販売用に調整する。熟果は淡緑色、黄色、帯紫赤色など、果肉は淡緑色、黄色、赤色など。果肉の分析例では、水分47%、糖質36%、たんぱく質6%、灰分0.7%、脂質0.02%、種子6%を含む。甘く水分に富み、盛夏に炎天下にスイカを食べるときの味に似る(私が食べたものは甘酸っぱかったので、スイカの味とは程遠く感じた)。生食のほか、サボテン蜜、糖果、ジュース、ゼリーなどを作る。果実はメキシコでは2〜3月に多く出回る。


●布袋弥勒

 上海の西北部に水産市場があって、よくその銅川路へ行くのですが、いつも市場からみえる塔のあるお寺が気になっていて、昨年10月、ふと、そこへも行ってみました。
 このお寺は真如寺といって、こじんまりとしてはいますが、元時代の様式を残す建物だそうです。
 ご本尊さまは普通の仏像?なのですが、その後ろ側に上右の写真のように真っ黒な布袋様が安座しておられました。
 なんで、七福神の布袋様だけが祭られているんだろうと不思議に思いながら、とりあえず写真を撮っておきました。

 もう2年前になりますが、中国での養殖の仕事を始めたのが浙江省寧波市寧海県で、いわゆる江南とよばれている所だったので、行く前に司馬遼太郎さんの「江南の道」を読みました。
 その時はまったく印象に残っていなかったんですが、この正月にたまたま実家で父がビデオにとってあったNHKの「司馬遼太郎の街道を行く」シリーズを見て、本の方ももう一度読み直してみると、杭州での話の中に、布袋様のことも書いてありました。
 以下、司馬遼太郎著「中国・江南の道」より

 ”元以後とみられる仏像のなかに、大きな布袋さんの像があった。気球のように肥満した腹をつき出し、あぐらをかいて大臍(へそ)を出し、二重にあごをくびれさせて満月形の顔を笑みくずしている。
「弥勒菩薩です」
 と、私どもを案内してくださった忻志英(きん・しえい)女史が、言われた。忻さんは、美術史にあかるい人である。
 ------これは、日本でいう布袋さんじゃないか。
 というふうに、同行者たちは驚いている。やがてそのうちのひとりが疑問を呈すると、
「そうです、布袋(ぷたい)」
 しかし中国では弥勒菩薩がつまりは布袋さんなのだ、と忻女史は言い、一行が動くにつれて、その場を過ぎた。
 やがて「雲林禅寺」という乾隆帝の筆になる扁額のあがった二層の建物のなかに入ると、その正面に、金で鍍金(めっき)された布袋さんが、大きな顔と腹を垂らして右膝をたててすわっていた。
「弥勒です」
 忻女史が言う。
 弥勒信仰というのは中国では古いが、むろん、本来は布袋さんではなく、いつのほどか、痩身の女性的な弥勒像が、布袋さんに変わったのである。
 弥勒菩薩は、日本では七世紀の古仏像が多く遺っている。有名な広隆寺(京都)や中宮寺などの半跏思惟像が代表するように、岩上に腰をおろし、右脚を曲げ、瞑想して右手の中指をわずかに頬にあてて、いかにも救済と瞑想と慈悲という主題を象徴するような形である。
 むろん、中国でも古い時代は、右のような儀軌(ぎき;仏像などの形の儀範)になっていたが、そのような象徴性や、形而上的相貌は、中国の民衆には適わなくなったのであろう。
 弥勒菩薩は、インドで成立した。釈迦滅後、五十六億七千万年のちに地上に下生(げしょう)して、釈迦生前のその説法に洩れた衆生を救うという菩薩で、その日までは兜率天(とそつてん)にあって天人に説法しているという。この救済性のつよい菩薩についての信仰は、インドよりも仏教が東漸してから、中国、朝鮮、日本でさかんになり、この法身(ほっしん)への憧憬の心が、ほとんど肉体という感じを離れ、内臓も持たないかと思えるほどに透き通って象徴的な弥勒菩薩の像をひとびとにつくらせた。
 が、布袋は、肉体そのものである。
 さらにいうと、この人物は、後梁(907〜23年)のころ(もしくは唐の末期)に、浮世にいたらしい。うまれたのは、この杭州からさほど遠からぬ、寧波(当時、明州)の奉化である。
 名は、契此(かいし)という。禅僧であったというが、寺は持たず、居所も定めない。明州の奉化あたりで家をまわっては食を乞い、物をもらうと、杖にぶらさげている布袋(ふくろ)に入れた。いつもこのふくろをかついでいるところから、異名として布袋とよばれた。
 ------いろんなものが入っているぞ。
 などといって、ときに人に袋の中を見せたりしたこともあったにちがいない。僧でありながら、肉を貰えば肉を袋に入れ、精進にこだわらなかった。
 額(ひたい)が、せまかったという。腹が異様に大きく、しかもつねに半裸で、雪の中でもそのまま寝た。中国人には多分に異常人好みがある。布袋が異常人であったことは、以上のことでもわかる。人の吉凶を占ったというが、本来の仏教には、占いの思想などなく、道教にはある。布袋は道・仏さだかならざる人物であったろうか。
 その死は、後梁の貞明三年(917)3月3日で、明州の奉化県の岳林寺という寺の東廊下で死んだというが、いわば、旅の者の行き倒れにも似ている。東アジアでは----日本でも中国でも----古代以来の信仰として、行き倒れの死者を宗教的に尊ぶ土俗があった。(古代日本では、異国人の水死体をも神として崇めた。)異人への畏敬と、行き倒れ信仰がかさなって、布袋の死後、
------布袋さんは、弥勒菩薩の化身だったのではないか。
 という者が出てきて、やがてその像をまつって拝むものがふえ、ついには、むかしからごく一般化していた弥勒信仰が、布袋の姿をとるようになったかと思われる。
 しかし、布袋さんが、骨に皮を張ったように痩せた人物であったとすれば、当時の中国の庶民の畏敬は得られなかったにちがいなく、弥勒菩薩にもなっていなっかたにちがいない。こんにちではちがうが、在来の中国では、肥満型の人を尊ぶふうがあった。大官や富豪にして肥満者でなければ威福がないとされた。布袋は乞食(こつじき)して暮らしていたが、ひとびとはその雄大な腹を見て福を内蔵している人と見たのではないか。
 唐代からすでにそうであったが、中国仏教は、一面では大きな寺院の経営史でもあった。大官や富豪といった檀越(だんおつ)の寄進に頼るところが多く、そういう者たちが、寺に、金銭とともに俗臭を持ちこむ場合、寺の長老としては教学と経営との矛盾に悩んだにちがいない。道元が宋に入り、天童山の長老如浄に出会って大いに蒙をひらかれるのだが、そういう如浄の管理下の天童山においても、道元が師の寺門維持の姿勢に疑問を抱くほどに俗界の風儀が入り込んでいたらしい。
 富豪の檀越が、大金を投じて堂塔を寄進し、さらに大きな布袋さんにぎらぎらと金箔を張り上げて、
 -----この弥勒菩薩をまつってもらいたい。
 と持ち込んでくれば、
 -----それは「儀軌」としての弥勒菩薩ではありません。
 と、ことわりきれなかったであろう。道元の入宋のときに天童山に布袋さんがあったかどうかはわかりにくいが、いま、そこにも布袋さんは弥勒菩薩として祭られているのである。”

 上の写真が、司馬遼太郎さんも見た杭州市にある霊隠寺の沿道の岩壁に彫られた「布袋弥勒仏」です。
 私も、この2月6・7日と日本からやってきた友人と共に、上海から1泊2日交通費、ホテル、4食つきで380元(約6500円)のツアーに参加して、思いがけなく、司馬さんの足跡をたどることができました。
 ここは、2日目に訪れたのですが、1日目にこれも思いもかけずに訪れた霊山のいうところに大鍾乳洞があり、鍾乳洞見物が終わって外に出ると下の写真のような布袋大仏がありました。
 ここに着いた時、この大仏様をガイドの女の子が「ミロク」と言ったのが聞こえたときには、思わずニヤリと笑みがこぼれました。
 1月に司馬さんの本を読み返していなければ、ガイドさんが「ミロク」といったのも、意味もわからず聞き流していたと思います。
 私も中宮寺の弥勒像は拝観したことがありますが、あのお姿とこの布袋弥勒仏とのギャップはあまりにも大きく、どういうことなんだろうと考えあぐねます。しかし、この大仏様の福福しいお姿は、いかにもご利益がありそうで、この姿を見れただけでも幸運がやってくるのではないかと感じさせてくれました。(2002.02.16)


●為什麼甜蜜的夢 容易醒

 中国の人達もカラオケ大好き人間が結構いて、私も歌を歌うのは好きなほうで、私の中国語の勉強はまずカラオケ画面の漢字を見ながら読みを覚えるところから始まったといっても過言ではありません。
 中国での生活が始まったばかりのころは、田舎のカラオケでは日本の曲はないので、とりあえず皆に歌えと言われるのは「北国之春」でありました。中国語の訳も原曲に近いものなので、中国語の歌詞を見ながら日本語の歌詞を思い浮かべて歌っていました。あと歌えそうなのは喜納照吉さんの「花」と、どういうわけか私の好きな吉田拓郎さんの「襟裳岬」がありました。
 それにしても3曲だけのワンパターンでは私自身面白くもないので、他人が歌っている歌でいいなあと思った曲は、題名を覚えておいて、後でカセットテープを買いに行って、その歌詞カードを見ながら辞書も引きつつ覚えていきました。
 最初に覚えたのが「月亮代表我的心」という曲で、これがなんと、テレサ・テン(テン・リージュン)の曲で、このあと、テレサ・テンの曲を何曲か覚えることになりました。テレサ・テンは未だに根強い人気があって、10代の若者も彼女の曲は知っていて、よく歌われています。とりあえず私もこの「月亮代表我的心」を歌えばつかみはOKとなります。ちなみに、「襟裳岬」もテレサ・テンのレパートリーの1曲で中国のカラオケにも入っているということもわかりました。

 カラオケといえば、小姐がつきもので、お互い言っていることは「ティン・プ・トン」で間がもたず、苦肉の策でデュエット曲を覚えていっしょに歌って楽しむことを思いつきました。スタンダードというべきデュエット曲も多いのですが、そのNO1は、ジャッキー・チェン(成龍)と陳淑樺という女性が歌う「明明白白我的心」でしょう。
 この歌の中で、表題の「為什麼甜蜜的夢 容易醒(ウェイシェンモ・ティアンミー・タ・モン・ロンイ・シン)、なぜ甘い蜜のような夢は容易に醒めてしまうのだろう」という一節に巡り会いました。
 この曲を覚えてからの1年半、ふと口ずさむのがこの一節で、これまでいくつの甜蜜的夢 容易醒があったことでしょう。そして、これから先いくつの甜蜜的夢 容易醒と感じることになるのでしょう。
 しかし、甜蜜的夢がなくなったらおしまいだと、それを持ち続けることが明日への活力を生む源泉だと信じて、頑張ってみるしかないじゃないか。(2002.01.06)


●枸杞(クコ)


 10月に上海にいた時、20年以上前にクウェートで働いていたときからお世話になっているTKさんも上海に来ていて、いろいろな話をする中で、「上海バイオ農業ツアー」をやってみようということになり、あちらこちら見学に行ってきました。
 以前から、上海の私の部屋の大家さんのNさんから、糖尿病に効く漢方薬がないかと相談を受けていたのですが、私が「冬虫夏草」について調べようと上海で買った本のなかに、「枸杞子(枸杞の実)」の薬効の一つとして、糖尿病にも効くとあり、枸杞という文字が頭の中にインプットされていました。
 そして、バイオツアーの下見をしていたときに、枸杞のカプセルと乾燥した枸杞子を売っているのを見つけ、私の父親も糖尿なので、みやげにとカプセルを買い、乾燥枸杞子も試しに買って食べてみました。本来は、料理に使ったり、酒やお茶に入れて飲んだりするものらしいですが、私はそのままを干しブドウを食べるようにして食べています。ほんのりとした甘味と酸味で悪くない食味です。
 
 帰国してから、とりあえず学研刊の「野草検索図鑑」を見てみると、
 
「クコ  学名;Lycium chinense (ナス科)」

 川の土手,道ばた,海岸などにみられる落葉低木。
とげ状の小枝がある。葉は互生または数枚ずつ集まってつき,倒皮針形(とうひしんけい)〜だ円形,長さ2〜3.5cm,質はやわらかく無毛,全縁。夏に葉のわきから細い枝を出し,淡紫色の小さい花がさく。果実はだ円形の液質で,10〜11月に赤熟する。分布:北海道(渡島)・本州・四国・九州・沖縄。若い葉,枝は食用となる。果実は薬用酒にする。

とありました。ここで、、「なるほど、枸杞というのは道端や海岸に生えているんだな」とインプットされました。

 帰国すると毎朝犬と散歩をするのが日課の始まりですが、護岸された浜名湖沿いの道を歩くと、冒頭の写真の赤い実をつけた低木が目に付きました。そういえば、10月に散歩していたときは薄紫色の花がついていたと思い出し、「ひょっとするとこれが枸杞か」と思い、よく観察してみると図鑑の説明にぴったり合うので、これはまさしく枸杞に違いないと断定し、その実も食べてみました。かなりみずみずしく、酸味はないけれども甘味のなかに苦味がまさり、これはこれで悪くは無いと感じました。

 不思議なもので、上海でのきっかけがなければ、浜名湖沿いの道端で赤い実をつけた木は、私の記憶のなかからすっと消え去ってしまうだろうに、随分と印象深い存在になりました。

 西崎統監修、主婦と生活社刊「健康食品バイブル」によれば、「その成分と効用は、血行をよくするベタイン、ゼアキサンチンが含まれているほか、ビタミン・ミネラル類も豊富で、肝腎を保護し、体力をつけ、目の障害(老眼)にも有効」とのことで、そういえば上海で乾燥枸杞子を食べていたときは、視力が良くなったような感じがしていて、帰国後は眼の感じがいまいちはっきりしないようで、老眼になりかけている私の眼には枸杞子が効いていたかもしれないと実感しています。

 20年くらい前に、エビや魚の飼育実験でビタミン剤の効果を目の当たりにしてから、自分でも総合ビタミン・ミネラルの錠剤を飲み続けていますが、健康を維持する上で、サプリメント食品はかなり重要な位置を占めているのではないかと感じています。
 とりあえず、この1ヶ月ぐらいは「冬虫夏草」のカプセルを飲み続けてわが身でテストをしていますが、これもなかなかいいような感じです。(2001.11.21)


●火竜果


 今年3月、中国の寧波から広東省の湛江へ向かうときに、飛行機の乗り継ぎで広州の飛行場で暇をつぶしました。国内線ロビーには果物のみやげ物屋がいくつも店を出していて、写真の果物が目にとまりました。この果物は、私にとっては初めて見るもので、「よし、湛江へ行ったら食べてみよう」と思いました。ところが、湛江についてみると、それにはお目にかかれず、試食はしばらくお預けになっていました。
 
 7月から、私が中国での拠点にしている上海の浦東新区にある川沙鎮で生活を始めて、近くのスーパーマーケットへ買出しに行った時、マンゴーやらブドウやらといっしょに果物売り場に並んでいるのをみつけたので、早速買って、食べてみました。
 真っ白な果肉は結構水分があって、甘く、シャキシャキした歯ざわりで結構おいしい果物です。ただ、その名前を知りたかったのですが、スーパーでは「水果(中国語で”くだもの”という意味)」と書いてあるだけで名前はわからないままでした。

 9月に入って、友人のKさんと大連へ行ったときに、そこの総合市場でこれが並んでいるのを見つけたので、売っていたオバチャンに名前を聞いてみたところ、「火竜果(huo-long-guo)」と言って、雲南省で生産されているということを知りました。Kさんは沖縄に住んでいますが、彼から沖縄でもこれを生産している農家があって、「ドラゴン・フルーツ」と呼んで、1個数千円で売っているとの話も出てきました。ちなみに、川沙のスーパーでは1個5元(約75円)ほどで売っています。日本へ帰ってから試しにと、小学館の「食材図典」を見たところ、この果物は「レッドピタヤ」と言って、サボテンの実であることがわかりました。

 食材図典によれば、「ピタヤ(英語・スペイン語では”pitahaya”):茎が支え、岩の上をはって伸びるサボテンの一種、ヒロセレウス・ウンダタスの果実のほか、エキノセレウス属やレマイレオセレウス属など、数属にわたるサボテン類の果実をピタヤとよび、広くあるいは地方的に果物として利用している。ヒロセレウス・ウンダタスの果実は、楕円形で、長さ8〜13cm、直径6〜8cm。果皮は赤く、これにまばらに三角状肉質の鱗片がつく。果肉は白色で、内にやわらかくゴマ粒大の黒い種子が散在し、甘くさわやかな酸味がある。ピタヤの種類により果実の鱗片は、刺様、乾皮様、肉質いぼ様など多様である。果肉は赤、半透明白色,飴色、帯紫赤色などがある。ジュースとして最高。コロンビアやメキシコ産のピタヤが少量輸入されている。」との事です。

 サボテンといえば、海南島では、ファーストフード店のカウンターに「ウチワサボテン」が積んであるのを見かけましたが、食材図典によれば、「甘く水分に富み、盛夏に炎天下でスイカを食べるときの味に似る」とあり、あれも試食してけば良かったと後悔しています。(2001.11.14)


●上海からの視点

 昨年の3月から今年の3月まで1年間、上海の南の寧波市の寧海というところでエビの養殖の仕事で生活する機会がありました。寧波という所は、日本にとっては太古の昔から縁があるところで、歴史で学んだことがあり、知識としては小学校のころから知っている場所ではありました。
 寧海で仕事をしているときに、地図を眺めていて、その地図に書き込まれている距離が、私がエビで関係していて、スタッフとしても1人やってきていた「大連」までの距離より九州の「長崎」までの距離の方が近いことに気がつきました。
 その時までは、「日本に大陸文化が伝わってきたのは朝鮮半島を経由して」と教わっていましたし、常に自分の故郷である名古屋や奈良、東京を中心とした視点で歴史をとらえていましたから、九州と上海はこんなにも近いということは、思いもよらないことでした。
 現在、日本のポップスが台湾や香港、上海で流行っていて、映画やテレビでも共演したりしていて、若者文化は国境を越えつつありますが、日本の古代から室町、秀吉のころまではけっこう普通に行き来していたようなので、この東シナ海をとりかこむ所は1つの文化圏を形成していたのではないかと感じました。
 そんな思いでいたところ、NHKの番組で日本に稲がやってきた道筋として、寧波市のなかの寧海の隣の「奉化」という街(蒋介石の出身地)の漁民が紹介されていて、その地域から風に流されて日本に漂着する人が今でもいるように、太古の昔にこの地域からはるか縄文時代の前期に半農半漁の漁民によって稲作がもたらされたということを見せてくれて、「オオ!やっぱり江南は日本のルーツなんだ」との思いを強くしました。
 そして現在、政治的なことは横に置いておけば、庶民レベルでの経済やマンガ・カラオケ・ポップスなどでの交流はダイナミックに動き初めています。中国でも結婚式は教会スタイルでする人達もでてきて、宗教に関しての無節操さは、日本人と変わりなく、意外と、ジョン・レノンの「宗教なんて無いと思ってごらん」「国なんて無いと思ってごらん」という「イマジン」の平和主義は東アジアの「環東シナ海文化圏」から生まれるのではないかなどと夢想しています。(2001.11.12)


●上海地下鉄指南


 上海へ来てすぐのころは、どこかへ移動するのにはタクシーが安いのでもっぱらタクシーを利用していましたが、生活にも慣れてくると、地下鉄とかバスを利用するのが便利であることがわかってきました。バスはおんぼろも多いですが、地下鉄はできてからも間もなく、清潔感を感じることができます。
 とりあず、上海の観光スポットや繁華街へは「豫園」という東京で言えば「浅草」のような所を除けば地下鉄で行けますから、これを利用しない手はないでしょう。
 上の写真が、地下鉄1号線、2号線、地上を走る明珠線の路線図です。そして、下の写真が切符の自動販売機と料金表です。地下鉄の1号線と2号線は人民公園駅で接続していて改札はでなくても乗り換えできますが、明珠線は一旦改札を出てから乗り換えなくてはなりません。

 初めて地下鉄に乗った時に、とまどったのが切符の購入でした。まず、コインが無い場合は窓口で購入できるのですが、次から次から割り込みの人が後を立たず、かなりの決意を持って窓口に向かわないとなかなか切符は買えません。そんなわけで、私はいつも地下鉄用にコインを用意するようにしています。自動販売機を初めて利用したときもまごつきました。日本では、自動販売機といえばとりあえずコインを入れてからボタンを押しますから、私もいつものようにコインを入れたところ、カランカランと戻ってきました。「オヤ!」とは思いましたが、再度入れてもカランカラン、「ム!なんでか」と思いながらコインを換えて再度入れてもカランカラン、ちょっと汗をかいて再度入れてもカランカラン。ここでふと目の前の表示を見ると、切符の買い方が図示してあり、なんと先にボタンで購入額を指定してからコインを入れるということが分かりました。中国語と日本語の同じ漢字を使っていて、意味も同じなのに漢字の順番が違うという熟語によく出会いますが(例えば「介紹」と「紹介」)、自動販売機の作法まで逆になっているとは思いませんでした。このあたりの思考法に日本人と中国人の大きな違いが現れていると思いますが、今はまだ理解できていません。

 地下鉄の切符は磁気カードになっていて、リサイクルされています。そしてもちろん無人改札ですが、初めてでまごつく人が多いのでしょう、大抵係員が一人改札についていて、通り方を指導しています。
 通勤時以外はそんなに混んでいませんが、1号線と2号線が交わる人民公園駅は結構混雑することが多く、そこで降りる時は、乗り込んでくる人たちに負けないよう強引に降りなくてはいけませんから、「さあ、降りるぞ!」と決意を持って臨まなくてはなりません。

 地下鉄は、上海の普通の人達を観察できて退屈しません。はじめのうちは写真を撮りたいと思ってもなかなかデジカメをバッグから出せなかったのですが、ストロボを発光させずに撮ればよいかと、撮ってみたのが右の写真です。少々酔っていたこともあり、ブレてしまいました。上海の小姐たちがドカドカと目の前にやってきて、こちらも酔っていたその力も借りての撮影です。左の写真は、おばあさんに連れられて可愛い女の子が目の前に座った時に撮りました。
 下ー左の写真の小姐はどういうわけか「SMAPの魅力ですよね」と書いてあるショルダーバッグを持っていたので撮らせてもらいました。上海でもSMAPは人気があるのか、意味も無く、ただ日本語が入っているだけなのかは分かりません。
 下ー右の写真は、午前中、寝不足のためか目を真っ赤にして乗り込んできて、すいていることもあってか、すぐに寝てしまった人です。しかし彼は目的地であろう所で降りていきましたからたいしたものです。実は私は7月に上海の知人の家でゴチになり、ビールをかなり飲んでの帰りの地下鉄で眠ってしまい、一往復分眠りこけたことがありました。このときは前に座った家族連れの少年が起こしてくれて目を覚ましましたが、それがなければ車庫まで行っていたかもしれません。何はともあれバッグを取られることもなく、無事帰り着きました。後日友人にこの話をしましたら、「いまどきは、上海のほうが東京よりも安全かもしれないね」と言っていましたが、このごろのニュースを見ていると、本当にそんな感じになります。
 
 なにはともあれ、上海へ来る機会がありましたら、地下鉄に乗ってみることをお薦めします。(2000.10.31)



●ニュージーランドアカザエビは日本でも獲れるらしい


  今年のお盆は、本当に何十年ぶりかで実家に帰り、お墓参りもしてきました。帰る度にエビに関する話題がないかと父親が購読している「毎日が発見」という雑誌に目をとおしているのですが、今回は、東京赤坂にある一流ホテルのなかのレストランが紹介されている記事のなかに、アカザエビとイセエビの写真をみつけました。「オッ!またニュージーランドアカザエビが使われているな」と思ったのですが、写真の下の説明を読むと「イタリア料理でよく食べられる手長エビ(スカンピ)も五島で水揚げされたもの」と書かれていました。以前、この雑記帳でも「ニュージーランドアカザエビとの遭遇」と題して、伊豆の戸田の民宿で出会ったニュージーランドアカザエビについて紹介しましたが、『ハサミ脚の赤い帯は1つだけで、また、腹部の各節の前縁が赤い』という特徴は、この長崎県五島列島産というアカザエビにもあてはまり、正にニュージーランドアカザエビのようです。
  左の写真は「原色日本大型甲殻類図鑑(T)」から借用しましたが、これまで日本国内で記録されているアカザエビ類です。左から「アカザエビ」「サガミアカザエビ」「ミナミアカザエビ」といいます。長崎県で獲れるとしたら分布が「山陰沖、土佐湾、九州近海、黄海、東シナ海、台湾、フィリピン近海」という「ミナミアカザエビ」でしょうが、レストランの写真に写っているものはニュージーランド近海の固有種といわれている「ニュージーランドアカザエビ」のようです。
  
  日本を代表するホテルのレストランですから食材に偽りはないと思われますから、ひょっとするとニュージーランドアカザエビに似た日本ではまだ記録されていない新種のアカザエビでありましょうか?
  それとも赤道を越えて、日本の方まで生息場所を拡げてきたのでしょうか?
  
  雑誌に出ていた写真は、エビ好きの私にとってかなり興味深い写真となりました。(2001.08.23)

●上海で食べたザリガニ鍋


 2001年7月23日のお昼時、上海の街を歩き回り、地下鉄の人民公園駅に着いて、地上に出ようと思ったところ、駅地下街に軽食食堂街をみつけました。1人で気軽に食べれるので、ヤキソバでも食べようと店を覗くと、最初の店で、上海では初めて見る、蝋細工のメニューサンプルが並んでいました。
 その中に、明らかにザリガニを使った料理があるのを見つけ、私はまだザリガニを食べたことがないので、早速注文しました。

 サンプルを見た時は、野菜とザリガニの炒め物かと思ったのですが、運ばれてきたのはアツアツのザリガニ鍋でありました。地上は37℃の猛暑、地下でクーラーも効いているとはいえ、汗だくで食べることになりました。体長8cmほどのザリガニが18尾、スープに浮いて運ばれてきたときには、イメージとはあまりにも違っていたので、「えっ!」と思いましたが、スープをひとすすりすると、これが美味くて、酸味と辛味とザリガニのダシがでていて、見た目をはるかにしのぐ、大当たりでした。ザリガニ以外には、菜っ葉の漬物とザー菜の漬物、トウガラシが入っていて、酸味は漬物から出ているようです。
 タイ料理の「トム(スープ)・ヤム(酸っぱい)・クン(エビ)」というエビの酸っぱいスープが有名ですが、上海のザリガニスープは、トムヤムクンほど、酸っぱくも無く、辛くも無く、ほどよい味で、すべてを飲み干してしまいました。ただ、ザリガニ自体はダシもでてしまい、肉質もパサパサしていて特別美味いとは感じませんでした。それでも、指の先ほどの身を取り出して全部平らげたことは言うまでもありません。ご飯がついて17元(255円)、これにサントリーの大瓶ビール5元(75円)、まずまず満足のいく昼食になりました。(2001.08.08)


●ノコギリガザミ



 私が中国で仕事をしている浙江省寧海県では、青蟹(chinsie;ノコギリガザミ)の養殖が盛んです。このカニはどちらかといえば熱帯性のカニで、日本では沖縄県が主産地になっています。私は日本では静岡県の浜名湖のほとりに住んでいるのですが、浜名湖はこのノコギリガザミが特産物になっていて、寧海の友人のR君はこれまた青蟹を商売にしているので、このカニを日本へ送れないかと相談をもちかけられたのですが、浜松の市場価格は以前に比べてかなり安値で、とても商売にならないとあきらめました。

 今回我が家に帰って来ると、私の小学校6年生の息子が授業で地元の事を調べる機会があって、このノコギリガザミについて調べ、パネルで発表した作品をみせてくれました。
 私にとっても知りたいと思っていたこともわかりましたので、以下に、息子の調査レポートを紹介します。

浜名湖のカニのことをたくさんしろう!

動機:ぼくはウオットに行ってノコギリガザミを見てほかのカニもしらべたくなった。
調べた方法:パソコンや本や漁協の人に聞いて調べた。
分かったこと
 カニの種類:ガザミ、ノコギリガザミ、米大西洋岸のガザミ、イシガニ、アカテガニ、ケフサイソガニ、メナガガザミ、ツノヒメガザミ(まだまだいるよ)
 カニは、大きい魚に食べられやすい。
 カニは、夜にエサをかっぱつに食べ始める。
 カニの足は急にショックをあたえたり敵につかまったりすると足がかんたんにもげてしまいます。しかし、とれても芽が出るように自然に元どおりになります。(カニの足が切れるのはあらかじめ切れるのがきまっていて、神経の作用でからだの血液は流れてはこない。)
 ノコギリガザミは月ごとにふえたりへったりしている(浜名湖でとれる量)
 ノコギリガザミは1年間で約5,488kgとれる。
 ノコギリガザミは「ドーマン」「甲丸」と呼ばれている。
 ノコギリガザミは、料理屋で食べると2はい4000円前後らしい。
 ガザミは浜名湖では「ササガニ」「サッサ」と呼ばれている。
 米大西洋岸のガザミは浜名湖ではあまりみられていない。
 米大西洋岸のガザミは大西洋からきたといわれている。
 カニはなぜアワをはくのか:カニは魚と同じようにエラで水中の酸素をとりこんで呼吸しています。水はハサミ、足の付け根から入り、エラを通り、口の上にある出水こうから出ます。しかし陸上で生活するカニは出た水を再び取り入れます。長い間水分がないと水を何度も何度も入れ、ねばりけのある物質が分ぴつされるためアワだってくるのです。
 アカテガニの食べ物:海辺にいるフナムシ、ゴカイ、小魚、死んだ魚、くさった草です。

平成10年のノコギリガザミのとれた量

10 11 12
とれた量(kg) 1 0 0 61 32 130 1372 1048 1020 592 1135 97

●トイレの話(中国篇)

 友人のKさんは10年以上前に中国を旅したことがあり、いろいろな話しを聞いていましたが、一番印象に残っていたのが、トイレ事情で、公衆便所などは個室になっていなくて、他人にお尻をみせて用をたさなくてはならないので気持ちのふんぎりが必要である、という話しでした。そのため私としては、現場に腰を据えて仕事を始めるまでは、短期の滞在で、Kさんの話しも聞いていましたから、できるだけ生ものは食べず、腹具合いに気を配って、ホテルで用をたしていました。
 3月下旬から現場にはりついての仕事が始まると、なんやかや歓迎の食事会にも呼ばれ暴飲暴食の日々が続き、規則正しいトイレ時間もくずれ、5月始めに宿舎が完成するまでは個室トイレはなく、ついに地元式のトイレを使わざるを得なくなりました。
 一番左の写真が現場の野外トイレです。これは二代目で、台風で屋根の部分が飛ばされてしまっています。竹と木材と藁で作った前面が開いた囲いの中に穴が掘ってあって、前面に木がうちつけてあるという構造です。初めてこのトイレを利用した時は、下痢でもれそうなお腹をかかえ、さて、どうやってやったらよいのかわからず、まず、横に渡してある木を乗り越えて、掘ってある穴をまたいで、その木につかまってしゃがんでみました。しかし、掘ってある穴の幅が広く、ズボンなどをずり下げてしまうととてもまたげる幅ではないと、また横木をのりこえて少し考え込んでしまいました。ふと、その横木に腰をおろしてみて、「これだ!」と方法を考え付き、ズボンなどを下げて、その横木にふとももの付け根のあたりで腰をおろし、お尻を後方に突き出して、やっと用をたすことができました。下痢便が後方に噴き出していく爽快感は格別のものがありました。
 この日までそのトイレの存在も気が着かず、ホテルから現場へ向かう途中の村の道路沿いで目にしていた2番目、3番目の写真のような構造物がいったい何であるか解らなかったのですが、この日の経験によって、それらは、トイレであることが解りました。日本なら見えない方向が開いている構造として作るんではないかと思うのですが、何故か皆道路側からまる見えの方向が開いていて、この発想の違いは何なんだろうと考えているんですが、今だに解答はみつかりません。ひょっとすると、常に油断せず、他人に後ろを見せないという防御的な意味があるのかもしれないなどと思ったりしています。
 それはさておき、これらのトイレは1軒に1ヵ所作るようで、4番目の写真のように家が密集している所では、道沿いにトイレがずらりと並んでいるのもみられます。また、このトイレの腰をおろす所の構造は2番目、3番目の写真のように2種類あって、3番目のような構造の方が進化したものであろうと思っています。というのは、私が、酔って、横木に腰をおろして用をたしていた時、ふと、「ここで後ろにひっくりかえったら悲惨だなあ」と思ったとき、3番目のようなトイレの構造の意味は、「そうか、あれは、後ろにひっくりかえった場合につかまれるようになっているんだ」と、思いついたのです。
 まあ、こうした村でのトイレは道路を行きかう人は少ないので、そんなに気にせず用をたせるのですが、街へ出たり、市場やバスセンターの公衆便所はいよいよ、個室でないまるみえトイレになるので、すいている時はまだしも、混んでいるときはさすがに、かなりの決意をもって用をたさなくてはなりません。この一線を越えれるか越えれないかが、中国で生活するうえで、快適にすごせるかどうかがかかっているんではないかと感じていますが、これも下痢をすれば、どうしようもなく、一線を越えざるを得ません。そうやって生活習慣の違いの一線を一つ一つ越えて、中国の生活にもすっかり慣れ親しみ、寧海での生活がすっかり気に入ってしまっているこのごろです。(2000.12.04)


●寝台バス(中国篇)

 寧波のバスセンターへ行くと、長距離寝台バスをよくみかけていて、私も一度は乗ってみたいと思っていましたが、11月19日から5日間ばかり、浙江省の南隣の福建省に天然のクルマエビを見に行くことになり、念願の寝台バスに乗ることができました。
 寧波から福建省の省都福州まで飛行機なら45分ですが、このバスでは16時間余りの旅になりました。
 寧海の梅林という所にこのバスが昼食に立ち寄る食堂があり、私とRY君、R君の3人でその食堂へ行き、バスに乗り込みました。
 席はシングルベッドくらいのスペースを2人分にわけてあるので、1人分としてはかなり窮屈ですが、この日は幸いすいていて、シングルベット分のスペースが確保でき、13時半ごろ出発となりました。
 R君は一人旅の女の子の横が開いているのをみつけると、チャッカリそこへもぐりこみ、すぐに仲良くなってなんやかや話しが弾んでいて、「なかなかやるなあ」と感心するとともに、自分の娘が寝台バスで旅をすることになると心配になるだろうなあなどと、いらぬ心配をしてしまいました。
 ゴロンと横になってゆられているとけっこう心地良く、19時ごろ夕食に立ち寄った所で白酒(paicyu;小麦やコーリャンを原料にして作られた蒸留酒)のポケットビンを仕入れて、夜はそれをチビリチビリやりながら寝たり覚めたりしているうちに夜が明け、6時半ごろ福州のバスセンターに到着しました。

 ここで、アモイ行きのバスに乗り換える前に、R君の本職である青蟹(ノコギリガザミ)の商売仲間のAS君に会っていこうと彼が店を出している「新亜細亜」という市場(写真左から2番目)に向かいました。
 タクシーから外を見ていたり、市場に着いて彼の居所を探してウロウロしていると、歩いている女性のほとんどが、髪を脱色して金髪にしていて、おまけにスタイルバツグンで、いくら福州が都会とはいえ、いったいこれはどういうことだと、ビックリしていまいました。
 アモイ近郊の漁村へ行ってから寧海へ帰る前に1日福州でのんびりすごし、街もブラついてみました。上の写真はその時のものです。一番左は福州の街角、3番目は古い建物が壊されて、新しい建物に変わっていく様子、一番右は街角でみかけた「キジ」の売買の様子です。このキジは1羽60元(約800円)で売られていました。
 こうして街をブラついていても、最初に福州に到着した時のようには、金髪の小姐(xiaojie;おじょうさん)をみかけないので、「おかしいなあ」と首をかしげつつ散策していて、「新亜細亜」近くもまたブラついていると、そのあたりは、服とか靴とかファッション関係のお店やデパートも集まっている地域で、金髪の小姐達はそれらのお店にいたのでした。最初の日は朝7時ごろそのあたりを歩いたので、ちょうど彼女達の出勤時間に居合わせたのでした。この日、福州でのんびりせずに、即、寧海へ帰っていたら、「福州の小姐はすごい」と間違った印象を一生持つことになったわけで、この一日の意義は大きいと感じました。(ちょっと大げさか…)
 帰りは私だけ飛行機で、などとも考えたのですが、あいにく寧波行きの飛行機は毎日でていないので、また寝台バスに揺られて帰ることになりました。帰りは朝9時半の出発でしたが、山越の連続の風景を肴に始めから白酒をチビリチビリやって、深夜1時半ごろ寧海に帰り着きました。
 手足延ばして、のんびりしていられるので、16時間余りの旅でも意外と疲れはなく、楽しい旅となりました。(2000.11.30)


●普通話(中国篇)

 今年の3月15日から本格的に中国での仕事を始め、それまで、中国語を勉強したことがなく、始めはもっぱら筆談でコミュニケーションをとっていましたが、5月に入るころから、簡単な日常会話は聞き取れるようになりました。
 「わかりますか?」というのを「トン・プ・トン(トンという漢字はリッシンベンに草カンムリとその下に重と書きます)」と言い、こちらが、キョトンとして相手の話しているのを聞いていると必ず聞かれますが、その答えとして、「ティン・プ・トン(言っていることがわかりません)」というのを一番初めに覚えました。初めのころは、それの多用で、筆談に移っていたのですが、私も少しずつ中国語を話すようになると、初対面の人は「プ・トン・ホワ」がどうたらこうたらと必ず言うのが聞き取れました。「ホワ」というのは「話」だろうと察しがつき、「話」は「中国話」というように「語」という意味でも使われるので、「プ・トン」と合わせて「あなたは、わけの分からない言葉を話しますね」と言っているのだと思い、「私が話している言葉は、中国語のつもりで、日本語ではないですよ」と答えていました。言葉足らずの中国語で答えているせいか、相手は首をかしげるばかりで1ケ月ほどが過ぎました。
 こちらのスタッフに「特別のことではなくて普通のことですよ」と言いたいために、辞典で「普通」というのを引いていたら、「普通話(putonghua)」というのを見つけ、その意味は「現代中国の標準語」ということがわかりました。そこでやっと、「なんだ、皆、『標準語が話せますか?』と聞いていたのか」と気がつきました。
 中国ではちょっと離れたところへいくと、言葉がかなり違うそうで、長街の街でも村によって言葉が違ってくるそうですから、省が違うと、外国へ来たようなものです。現在一緒に仕事をしているスタッフは、中国北部の天津から3人、大連から1人来ていて、彼等も地元の言葉はまったくわからず、「普通話で話してください」とよく言っているのにも気がつきました。
 この普通話も発音が難しくてなかなか聞きとりにくいのですが、私としては、北方の北京とか天津とかの人達の発音より寧海の人達の発音の方が聞き取りやすく、北方からお客さんがやってくると、地元の人が通訳に入ってくれないと、話しが進まないといったことになります。なんでかと考えてみましたが、北方の人達の発音は口の中にこもって発音され、単語にハギレがなく、寧海や中国中部の人達の発音はハギレよく発音されて、単語が聞き取りやすいということに気が着きました。いうなれば、日本の東北弁といっしょで、北方は寒いので口を大きく開けないで発音しているために口の中にこもっているのではないかと思います。
 これまで私はアラビア語のクウェート、タイ語のタイでそれぞれ2年あまりずつ仕事で暮らしたことがありますが、どちらの国も文字がまったく違うことと、職場では英語が通じたこと、日本人のスタッフと一緒であったことなどの理由で現地語は簡単な会話しかできませんでした。しかし、ここ寧海では普段はまったく日本語を聞かず、中国語だけの環境であるし、文字が「漢字」で、とりあえず、辞典を引いたり、本を読んだりできるので覚えやすいように感じます。ただ、四声とか有気音、無気音とか本格的に話せるようになるにはまだまだ長い学習が必要でしょう。(2000.11.16)


●村で観た越劇(中国篇)

 このところ、養殖の仕事がすっかり暇になって、養殖以外の仕事を見つけようと、あちらこちらへ調査に出かけたり、中国での生活を楽しむゆとりがもてるようになりました。しばらく、「養殖記」がお休みになって、中国での生活の紹介が多くなるかもしれません。
 昨日は思い懸けなく「越劇」を池の近くの村のお寺の境内の舞台で観ることが出来ました。一昨日から、隣の会社の社長(28才)のお父さんから「寧波から越劇が来るから観に行こうよ」と誘われていたのですが、内の若いスタッフは興味がないようで、賄のオネエサンは、観にいきたいらしく、私が行くと言わないと、、車で連れて行ってもらえないので、そのお父さんと二人で盛んに私を誘うので、ものは試しと観にいくことにしました。
 小雨が降る中、屋根のある席はすでに満席で、小雨に濡れながらの見物になりました。

 こうした中国劇を「京劇」と言うのだと思っていましたが、これを書いているときに、スタッフがガヤガヤとやって来まして、パソコンの画面をのぞきこみ、「これは『京劇』じゃなくて、『越劇』だよ」と教えてくれました。「どうちがうのか」と聞いても、説明が良くわからず、試しに「新中日辞典」で「越」を引いてみると、「周代の国名、現在の浙江省一帯」ということで、浙江省の伝統舞台劇を「越劇」と呼び、「京劇」は都、北京の伝統舞台劇を指して、ちゃんと区別されていることがわかりました。
 中国劇というと中国映画の「覇王別姫」をビデオで観て知っているだけで、その映画も、「紅いコーリャン」以来ファンになった、コン・リーさんを目当てに観ただけで、京劇に興味があったわけではありません。
 というわけで、私自身もそんなに観たいと思って出かけたわけではないのですが、第一幕がはじまると、きらびやかな衣装の役者さんが現われ、狭い舞台で床運動の体操選手並の連続回転技が披露され、おまけに、机と椅子を積み上げて作った2mほどの高みからすごい衣装のまま、空中一回転をやって飛び降りるという技まで披露されて、完全に「ツカミはOK」、1時間半ほどを立ち見でおまけに小雨に濡れながらも楽しませてもらえました。
 劇の内容は「劉金定征西」といって、悪者をやっつける話しのようで、最後は、ドンデン返しもあったようですが、私はよくわからないまま、美しい衣装の役者さんを眺め、舞台の横で劇の間、ずっと演奏しているバンドの迫力ある音楽を聞いていました。琵琶が1人、胡弓が2人、打楽器が2人の計5人の編成で、クラリネットのようなインドのヘビ使いがつかうような管楽器やら、いろいろな打楽器を持ち換え持ち換え、役者の動作と一体になった「チョワーン、チョワーン」という鉦の音がなかなか心地よく聞こえます。
 やはり生演奏というのは迫力がちがうことがよくわかりました。
 先日、寧海の若者のR君と内のスタッフの1人のRY君との3人で上海へ行って来たのですが、RY君は天津へ里返りしたあと、R君と2人になり、彼は上海は初めてで、「上海に来たからには、ディスコに行きたい」といいだし、私は「ディスコはちょっと勘弁してくれ」と、旅行案内書でみつけた「Hard Rock Caffe」へいってみました。ここでも1時間ほどの生演奏のステージがあって、たぶんフィリピン系のバンドではないかとおもうのですが、私の好きなピンク・フロイドの「ウォール」から演奏が始まり、一番前のテーブルで迫力ある演奏を堪能できました。この店には英語が話せる中国の若い美人の女の子がたくさんいて、R君は寧海でのように気軽に声をかけれないためか、「仕事でお金を儲けたら、英語の塾にいくぞ!」と宣言していました。
 今は、20代から30代前半の若い人達と生活を共にしていて(1人45才のスタッフもいますが)、地元のことをいろいろ教えてくれているR君は25才で、兄弟のような付き合いをしていて、私は自分の年齢を忘れてしまいそうです。この寧海での生活がちょうど私が10代、20代をすごした昭和30年代、40年代のような雰囲気であるのも、年齢を忘れてしまいそうになる原因かもしれません。
 まあ、若返ったついでに、またいろいろ経験を積ませてもらおうと思います。(2000.11.14)


●ミドリシャミセンガイ

学名:Lingula unguis

 中国、浙江省寧海県長街鎮でアゲマキの稚貝を購入したさい、それに混じって、日本では珍しくなっているというミドリシャミセンガイが見つかりました。これは、貝ではなく、分類学的には触手動物という門に属していて、なじみの薄い生き物です。
 なぜ、これの名前を覚えていたかというと、東京水産大学に入学して「水産動物学」という科目を履修したのですが、その試験問題に「ミドリシャミセンガイについて述べよ」という問題が出て、その時はまったく何のことか分からず、試験後図鑑で調べて、今だに記憶に残っていたのです。

 今回、その教科書であった、谷田専治著、恒星社厚生閣刊、「水産動物学」をひっぱり出して来て読んでみました。

『 触手動物門には外観の非常に異なった動物がふくまれ、あるものは軟体動物に似、あるものは腔腸動物とか植物に類する外形のものがある。すなわち、コケムシ類、腕足類、ホオキムシ類という相互にかなり異なった3綱が含められている。学者によっては一括せずに3類をそれぞれ別門として取り扱うこともあり、また星口動物をも含めて前肛動物とすることもある。
 腕足類は体の背腹に2枚の介殻をもっている。介殻はかたい石灰質かまたは角質からなり、蝶番で関節しているものが多い。介殻の後端から筋肉質の柄をだして他物に付着するものがある。この類は世界至る所の海洋にみられるが、概して浅所、暖海に多い。化石としても非常に古い時代からみられている。カイメン、サンゴ虫、岩礁などの表面に付着し、あるいは海底の砂泥中に樹立して生活する。ミドリシャミセンガイが食用となる以外は、人生との関係はほとんどない。
 ミドリシャミセンガイの2枚の殻は扁平で帯褐緑色をし、長さ3cm、幅1.5cmくらい、両殻の間から外套縁の剛毛列がみえる。下部の柄は肉質で先端やや太く、長さ6cmにおよぶ。低潮線付近から50mくらいまでの水深の泥砂中に潜入してすむ。本州、四国、九州に分布し、大量にとれる地方では柄部を食用とする。』

 もう1冊、日本メールオーダー社刊、「動物の大世界百科 10」にシャミセンガイについての詳しい記載をみつけました。

『 シャミセンガイの仲間はすべて海産で、からだが2枚の殻につつまれているので、一見、二枚貝のように思える。じっさいむかしは軟体動物として分類されていた。しかし、19世紀のなかごろには、二枚貝は殻がからだの左右についているのにたいして、シャミセンガイなどは殻がからだの背中と腹の面についていることがわかり、軟体動物から分離された。
 シャミセンガイは、浅瀬の泥まじりの砂にもぐって生活している。リン酸石灰でできた殻は緑色をおび、長方形でうすく、2枚とも同じ形をしている。この殻から、長い筋肉質の柄をのばしており、その名のとおり三味線のような形をしている。柄を下にして垂直にもぐり、殻の上縁を泥の表面すれすれに出して生活している。そして殻の間から、からだをつつむ外套膜のまわりにはえている剛毛をのぞかせている。触手にある繊毛の運動で水流をおこし、殻の両側から水を吸い込み、殻の上部中央から水を吹き出している。砂から掘り出しておいておくと、さかんに剛毛を動かしたり、殻をとじたりひらいたりして、砂の中にもぐってゆく。肉質の柄はよくのびちじみするが、切れやすい。しかし、よく再生してもとどおりになる。生活力はきわめて盛んで、雨水がまじって海水がうすめられてもよく生きている。太平洋からインド洋にかけて分布し、南オーストラリアやニュージーランドにもいる。日本では青森県の野辺地湾にもいるが、瀬戸内海や有明海に多い。特に有明海では、かつて干潮時に砂を掘ってザルですくってとり、煮て食べていたほどであった。
 シャミセンガイなどの仲間は、現在までに知られている種の数はたいへん多く、8000種におよぶが、ほとんどは化石で、現生種は約200種にすぎない。化石としては古生代のカンブリア紀から中生代にかけて多くの種類が記録されている。それでシャミセンガイの仲間はもっとも古い化石動物として知られている。かれらの最盛期は5億年から4億4000万年前のオルドビス紀であった。そのころから現在にいたるまで、シャミセンガイの仲間は形がほとんどかわることなく、長い年月を生き続けてきた。体制の変化なしに5億年を生きのびてきたのは、貝殻を持っていて外敵から身を守り、しかも他の動物では生きられないような悪条件のもとでも耐えられたためであろう。種族をこれだけ長年の間保ち続けてきた動物は他にはあまりいない。このシャミセンガイの仲間の化石は、地質学者が岩石の年代を推定するのに重要な手がかりとなっているのである。』


●アゲマキ

学名:Sinonovacula constricta

 中国でエビ養殖をやろうという計画を進めていて、浙江省寧海県長街鎮という場所で実施することになりました。
 その長街鎮というところは、アゲマキという二枚貝を中心として、エビやカニとの混養が盛んな所で、街のレストラン、食堂では一年中、アゲマキが食べられています。
 アゲマキについては、貝類の図鑑をみても簡単な記載しかなく、いったいどんな性質の貝なのか分からないままでいたのですが、「ミドリシャミセンガイ」について調べようと、20数年ぶりに開いた大学生時代の教科書に詳しい記載があったので紹介します。

『 殻は前後にのびた長方形に近く、その両端は丸みをもっている。長さ10cm、高さ3cmに達する。殻片はうすく、ふくらみはあまり強くない。殻頂は前方に偏している。殻外面は茶褐色のうすい殻皮を被り、内面は白色である。出入水管が離れているので、穴は離れて2個できる。産卵期は10〜2月。瀬戸内海・九州沿岸一帯にみられるが、有明海・児島湾はその主産地である。淡水の注入する浅海の粘土質の多いところに深く潜入している。普通殻長の5〜6倍くらいの底土中にすみ、水管を長く出している。鍬で掘り、または鈎(カギ)で採取する。
 肉は鮮食するほか、缶詰または乾製品とする。乾アゲマキは有明海沿岸でつくられるが、それは大鍋で20分ばかり煮て殻をとり、肉を清水で洗ってから10分内外煮て、むしろの上にならべ、水気のほぼ蒸発した後、乾燥器で乾燥する。あるいは釜で煮た肉をむしろにならべ、2〜3日間日乾する。
 この養殖は、稚貝を発生地から採取し、適当な場所に移植して生長させるもので、6〜8月に殻長3〜4cmのものをとり養成場に蒔きつけ、ほぼ1ケ年後に取り上げる。アゲマキの生長は4〜9月に早く、冬季歯は緩慢である。満1ケ年で4.5〜5cm、2年で7cm、3年で10cmとなる。養殖適地は軟泥質で比重1.015〜1.021、水温15〜20℃、干潮時3時間くらい露出するところである。
 外敵としては、アオサギ、シラサギのような鳥類およびハゼ類である。(谷田専治著、恒星社厚生閣刊、「水産動物学」より)』

関連サイト

アゲマキガイ:「佐賀県のホームページ」のホームページより
マテガイとアゲマキ:長崎県在住の方の個人ホームページ『湯〜マット de R の「旅」』より


年賀状で届いた珍しいエビ「バクエビ」の写真

 友人のCさんから世界でたった2個体しか採集されていないというエビの写真が年賀状で届きました。「バクエビ」と命名したそうです。このエビは、体長は約5cmだそうです。
 夢を喰うという哺乳類の「バク」をイメージしたのでしょうか?

 なるほど、顔付きが、似ているようです。
 しかし、バクが夢を喰うというのはどういうことなのだろうか? 「動物の大世界百科(日本メールオーダー社刊)」によると、中国では、唐の時代にバクの皮は邪気をさけるということで寝具になどに使われたり、屏風にバクの絵を描いていたということで、「バクが悪い夢を食べてくれる」という言い伝えになったらしい。
 中国の古い書物に出て来るバクの姿は、ゾウの鼻、サイの眼、ウシの尾、トラの脚を持ち、全体としてはクマに似るとされ、黒と白の毛色であるとされているそうで、これは、想像上の動物とみるより、東南アジアに分布する「マライバク」をもとにしているそうだ。(2000.01.07)


浜名湖産主要漁獲物の水揚量

 静岡県水産試験場浜名湖分場で発行している、試験場の内容を紹介するパンフレットに浜名漁業協同組合の1993年〜1997年の5年間の年間平均漁獲量が示されていますので紹介します。(1999.04.19)

種類
年間平均漁獲量(トン)
備考
スズキ
58.2
天然
クロダイ
47.9
天然
マハゼ
56.1
天然
クルマエビ
63.9
天然
ガザミ
17.6
天然
ノコギリガザミ
3.9
天然
アサリ
2,511
天然
カキ
96
養殖
ノリ(ヒトエグサ)
266
養殖


浜松祭りで発見した海老たち

 5月3-5日は、浜松祭り。初日に雨が降ったものの、4、5日は曇り日で、3日間で115万人の人出だったそうです。私も家族とともに、4日の夜は浜松駅前の屋台見物に出かけ、5日は中田島に凧上げを見物に出かけました。
 凧上げ会場は、たくさんの大凧が揚がり、ラッパの音が鳴り響き、見物しているだけの私もなにか心が浮き立ちました。遠くに大きな伊勢海老の図案をあしらった大旗が見えたので、近くへ寄ってビデオを撮らせてもらいました。「海老塚町」の一団で、揃いのハッピにも伊勢海老が描かれていて、「いいなあ、あれ。」と欲しくなってしまいました。なんとかして手に入れようと思います。凧の図柄は、単に「エ」の字でちょっと残念でありました。

 もう一つ見つけた海老は「シュリンプ焼」という、桜海老やキャベツなどが入った伊勢海老の図柄のお好み焼きのような食べ物です。出店の垂れ幕には、「シュリンプ焼」と書かれていますが、図柄から言えば「ロブスター焼」とするほうが良いのではないかと思うのですが、いらぬお世話でしょう。たっぷりのお好みソースが塗られ、それに花鰹がたっぷりまぶされて、ソースと鰹節の味が印象に残る「えび焼」でした。(1998.05.08)


ザリガニ釣り

 今年は大雨ばかりか、おまけに4月から夏日を記録するなど、とても尋常とは思えない気候がつづいています。雨の合間をぬって、4月26日は朝から快晴で、久々に気持ちの良い日曜日なので、毎年一度は行っているザリガニ釣りに子供達を連れていきました。
 私の住む雄踏町はウナギの養殖が盛んなところで、現在では、皆ビニールハウスの中で養殖していて、露地池はほとんどが使われていないので、アメリカザリガニやテナガエビ、フナ、ドジョウ、モツゴ、メダカ、ウシガエルなど、生き物達の宝庫になっています。
 いくつもある池のうち、地元では、ザリガニ釣りならあそこの池と、毎年、子供達や家族連れでにぎわう結構有名な池があります。借家から車で5分とかからない所で、費用はエサにする「竹輪」一袋140円で楽しめるので、「安近短」の極致と言えます。
 ザリガニのいそうなところに、タコ糸に竹輪をくくりつけて、ほうりこんでやると、入れ食い状態で、多い時には一度に4、5匹も釣れてきます。1時間もすると、数十匹、2、3時間では100匹以上はかるく釣れてしまうので、釣れすぎて持って帰るには多すぎるし、8cm前後のものが多くて、食べるにはちょっと小さめで、結局は池にもどすことになりますが、子供達にとっては面白くてたまらないといった様子です。
 毎年、大勢の子供達があんなにたくさん釣り上げていて、乱獲といってもいいのではないかと思うのですが、いっこうに減る様子がないのは、アメリカザリガニの繁殖力のすごさを物語っています。なんといっても「1927年に神奈川県大船に用意されたウシガエルの養殖池に放された20匹のアメリカザリガニがどんどん増え、大水や台風で周囲にひろがり、10年(1940年)で関東一円を制覇し、1950年には北海道を除く全国を制覇、上陸20年で全国制覇をしてしまった」という繁殖力ですから、夏以降に子供達がザリガニ釣りにも飽きて、他の遊びに熱中している間に、セッセと子作りに励んでいるのでしょう。
 とはいっても、20万年もかかったとはいえ、アフリカに登場した、一人の母親、イブから発して、地球上のあらゆるところで増え続けている人間の繁殖力にかなうものはいないのかもしれません。(1998.04.28)


ニュージーランドアカザエビとの遭遇

 以前から、「タカアシガニ」や「アカザエビ」がテレビで紹介されるたびに、一度は西伊豆の戸田(へだ)へいってみたいと思っていましたが、集英社発行の隔週誌「サライ」の今年の1月1日号にエビ特集があって、戸田のタカアシガニを獲るための深海トロールに混獲されるエビも紹介されていたので、ぜひ行ってみようと思っていました。昨年春に、「サイクルスポーツセンター」に行こうと、前売り券を買ったものの、母の入院やら、家族が代わる代わる風邪をひいたりしていけなくなり、一年間の有効期限が切れる前に行く事になり、どうせなら、戸田に一泊しようと、エビは勿論ですが、念願の世界最大のカニであるタカアシガニを食べに、私の家族と妻子が仲良くしてもらっているAさん家族の総計七人で行ってきました。
 戸田に泊まった3月14日は強い北西風が吹き、漁港や、海岸沿いの岸壁を散策するにはずいぶん肌寒かったけれど、そんな風を受けても釣りをしている人たちがいるのには、感心しました。
 今回は大人は10,000円、子供6,500円コースの民宿に泊まったのですが、夕食にはキンメダイをメインにした刺身の舟盛、テンプラ、アカザエビの姿作り、ズワイガニの半身、磯魚の煮魚、モズクの酢の物など、食べ切れないほどの料理がでました。そして、念願のタカアシガニは特注で、一尾、12,500円でした。
 タカアシガニは、少々水っぽい感じではありましたが、私は、足の付け根の身をカニミソにからめて食べましたが、ネットリした味で、まずまずのものでした。
 もう一つの目当ての「アカザエビ」は、いわゆる「アカザエビ」とは違っていて、ハサミ脚に赤いストライプがあったので「ミナミアカザエビ」かなと思いました。記念に、タカアシガニとアカザエビの殻を持って帰ってきたので、図鑑でみてみると、ミナミアカザエビのハサミ脚には4本のストライプがありますが、今回食べたものは1本しかないので「オヤ!」と思い、小学館の「食材図典」をみてみると、『ハサミ脚の赤い帯は1つだけで、また、腹部の各節の前縁が赤い』という解説があり、「正に、それだ!」と、今回食べたものは、「ニュージーランドアカザエビ(New Zealand Lobster)」であることがわかりました。このエビは『ニュージーランド近海の固有種で、水深200〜750mに生息するが、資源量は不明で、常時輸入されているものではないようである。』そうだ。今回は、姿作りの刺身で食べましたが、身はトロリとしてプリプリ感はなかったけれど、甘味は強く、おいしくいただきました。
 戸田村は、タカアシガニと、テナガエビ(アカザエビ)の村ということで、村営の共同温泉浴場にある100円で20リッターの温泉の自動販売機のナンバープレートにそれらの図案が描かれているのを見つけました。写真の上の方がそれです。
 今回は、初めての伊豆訪問で、車の渋滞には閉口しましたが、見たいもの、食べたいものの宝庫のようで、また、来たいものだと思いました。(1998.03.27)


ウチワエビ

 今年は、2月からずいぶん暖かく、下旬にはすでにツクシも顔を出して、すでに2度ばかりわが家の食卓に並びました。
 行きつけの魚屋さんでも浜名湖の口にある舞阪漁港に水揚げされる水産物があれやこれや並ぶようになり、水温が上がってきて生き物たちが動き出す、春のおとずれを感じさせてくれます。
 3月2日に、妻が、翌日の雛祭りにちらし寿司を作るのに、イクラが欲しいというので、魚屋をのぞくと、ウチワエビがひとやまだけ並んでいたので、ついでに買い求めました。体型が偏平で身肉は少ないとはいえ、腹部の身はサシミで食べてもおいしく、頭や小さなものは2つ割りにして味噌汁にして食べると、すばらしいダシがでて、身の味も甘みを増してとてもおいしくいただきました。
 私が小学校4年生ぐらいの時、母の友人のオバサンの南紀尾鷲のおみやげで生きたウチワエビをもらったのが、このエビとの最初の出会いで、子供用の図鑑に乾燥標本の作り方がでていたので、腹部の身は食べた後、初めて標本を作った思い出があります。その後、色々な標本を作りましたが、引っ越しのたびに捨てたりして、ほとんど手元に残っていませんが、このウチワエビの標本は、母が大事にとっておいてくれて、名古屋の実家の母の部屋に飾られているのを何年か前に見たときは、とてもなつかしく、幼なじみに出会ったような気がしたものです。
 私は、最近肉類よりも水産物のほうがおいしく感じるようになり、これも年を取ったせいなのかとも感じています。週1回の魚屋がよいが、これから回数が増えていきそうで、なんやかや思い出のある生き物に出会えるのも楽しみの一つになりました。(1998.03.06)

 


由比町の桜えび 

 桜エビアイスを食べに行ってみたいと常々思っていたので、4月13日に天気の良いのにさそわれて、桜海老の春漁が始まった由比町へ行ってきました。新聞記事によれば、「日本平パークセンター」の売店にあるとのことでしたが、残念ながらそこでは見つけることができませんでした。しかし、JTB発行のるるぶ通巻1181号、「食べよう! 静岡」によると、由比町の「ゆい桜えび館」でも桜えびアイスを売っているとのことで、迷うことなく、そちらへと向かいました。

 桜えび館にはサクラエビに関する資料がパネル展示されており、地場産品の販売と食堂もあります。私たちはなにはともあれ、桜えびアイスクリームを味わいました。バニラアイスの中に干しえびの細片が混ざっており、えびの香ばしい味わいがバニラとよくマッチしていてなかなかおいしかったです。
 昼食には間があったので、徳川時代の1651年に幕府転覆を企てたという由比正雪の生家と言われる染物店の正雪紺屋でえび柄の手拭を買い、その向かえにある、東海道広重美術館を見学したあと、玉鉾という料理屋さんで昼食をとりました。

  

 私は、写真(左)の桜えび定食の並(1,500円)を、妻子は桜えびのかき揚げ付のざるそば(1,000円)を食べました。定食には桜えびの生、釜揚げ、そしてかき揚げがついてきましたが、やはり生で味わう桜えびが一番で、甘く、その香りとともにおいしくいただきました。クルマエビなどの稚エビとは異なり、その殻が柔らかくまるごと食べても、殻が口中でガサゴソしないので食べやすく、味わいやすい利点がサクラエビにはあります。生えびをたっぷり使ったかき揚げも甘みとサクッとした香ばしさでこれまたなかなかおいしい一品でした。定食の上は、この他に「沖あがり」という桜えびを使ったすき焼きのような料理がつくそうです。

 昼食の後は、妻子達には広場で遊んでいてもらい、私は漁港の方へと街並をブラブラ散策して楽しみました。あちらこちらにエビの図案が見られ、思わずウキウキと歩きまわりました。エビ以外で気がついたのは、やたらとツバメが多いことで、旧東海道に沿った家並の多くの軒下にはツバメの巣があり、町民の皆さんが大切に守っているのでしょう。
 そして、富士山をバックに赤い桜えびが拡がるという、富士川の河川敷にあるえび干し場へも行きましたが、残念ながら黒い敷き網があるだけでこれは空振りに終わりました。

 「ゆい桜えび館」のパンフレットによれば、桜えび漁は、「明治27年11月の一夜の出来事。由比の漁師望月平七さんと渡辺忠兵衛さんがアジの夜曳き網を仕掛けたところ、浮き樽がはずれ網は深い海中へ、あわてて引き上げると桜えびがぎっしり。『そうか、エビはこんなに深いところにいるのか』と分かって、網の工夫などを重ね、今日の漁に至っているといわれています。」

 「るるぶ通巻1181号、「食べよう! 静岡」によれば、「現在由比漁港には、桜えび漁船が60統(1統2隻)あって、総漁獲高の80パーセント以上を桜えびが占めているそうだ。漁は、産卵期を避けて、春漁(3月26日〜6月6日)と秋漁(10月15日〜12月27日)の年2回。ただし出漁する日は、この間の3分の1ぐらいとか。桜えび漁は由比港を中心として蒲原、大井川の3つの港から出漁するが、この駿河湾の大切な資源を守るために、出漁対策委員会が組織されている。出漁するしない、その日の操業場所、漁獲量などすべて委員会で決定される。資源管理型漁業とよばれるこのやり方は、日本国内では唯一で、世界にも例がないのではといわれている。(1997.04.20)


えびせんべいの里

  2月23日に愛知県の知多半島の美浜町にある「えびせんべいの里」を訪ねて来ました。
えびせんべいの製造、直売をしている所で、南知多のみやげもの物産センターのようなものだろうと予想して出かけて行きました。外見はいかにも工場もしくは体育館といった感じで、いったいどんなものがあるのだろうかと中に入ってみると、ガラス越しに見学できる工場と広いフロアーには10種類を越えるせんべいが山と積まれ、それぞれ試食できるようになっていました。若干の干物類はあるものの、場内にはえびせんべいの山と精算所のみと、いたってシンプルでいやでもエビセンに手が出てしまいました。早速、家族一同大喜びで全種の試食をさせてもらいました。カリカリ、パリパリと香ばしいせんべいをほうばり、一同満足。おまけにコーヒーの無料サービースまであって、その心使いに感謝して、ついついあれもこれもと買ってしまいました。
 ごく普通のえびせんべいの「小花」(1袋500円)は勿論おいしかったけれども、妻と子供達は梅味の「梅小花」(1袋500円)が気に入ったようでした。私はパンフレットの説明に「大振りのえびをそのままの姿で焼いてフライにしました。贅沢さは他に類をみない、まさに究極のえびせんべいです。」とある、エビの化石のような「えび姿」(1袋800円)(右の写真)と言う商品が気に入りました。半端なエビフライやエビ天などは比較にならないほどうまいと思います。また、ワサビがしっかりきいたなかにもエビの味も負けてない「わさび小花」(1袋500円)もなかなかのものです。
 この美浜町にある野間海水浴場は、私が小学校、中学校に通っていた頃の夏休みには毎年数日間を過ごしていた所なので、子供達を連れていき、海水浴場や野間灯台の近くで貝殻拾いをしました。30年前とはすっかり変わっていましたが、この海岸で出会った海の生き物達がその後の私の生きる方向を決めたように感じ白い灯台をしみじみと眺めました。(1997.02.27)


フォレスト・ガンプはエビ長者

 私は映画が好きで衛星放送から興味のある映画を片っ端から録画しているのでビデオはたまっていくばかりです。妻には老後の楽しみがどんどん増えていくと言ってはありますが、命の尽きるまでにすべてを観ることができるのか………
 今の養殖作業のシーズン・オフは、たまったビデオを観るチャンスでもあり、以前から気にかかっていた「一期一会  フォレスト・ガンプ」を観ました。ガンプの淡々とした語り口で現代史とともに彼の歩んだ奇蹟的な半生が語られています。彼が大学を卒業して軍隊に入隊する時、9才の時からエビ漁船に乗っていたという、通称ババという黒人青年が登場します。このババという青年はガンプの親友になりますが、いつもエビのことばかり考えている人間として描かれていて、除隊したらエビで暮らしをたてるのを目標にしています。映画の中でこうしたエビにとりつかれた人に会うというのも、私にとって、一期一会といえるのかもしれないと、この映画に対しての興味が倍増しました。
 ババのセリフはエビに関係したことばかりで、そのセリフを紹介すると

「エビは海の果物だ。焼いても茹でても煮ても炒めてもいい。
エビカレー、エビのうま煮、エビガンボ、エビフライ、カラ揚げ、衣揚げ、
パイナップル味、レモン味、ココナッツ味、ペッパー味、
エビスープ、エビシチュー、エビサラダ、エビポテト、エビバーガー、エビサンド」

ベトナムへ来て最初の言葉は

「この海にはエビがいるぞ。エビの採れる国だ。
戦争に勝ってここを占領したら、エビの漁師をここに呼ぼう。
腰を抜かすほどにエビが採れる。」

「お前とおれは相棒だ。兄弟のようにお互いを気づかっている。考えてた事がある。
大切な事を尋ねたい。おれとエビ商売を始めないか?」
「全部、経費を計算した。船を買うのは幾らか、ガソリン代もな。
船で寝起きすりゃ安上がりだ。
おれが船長、だが稼ぎはきっちり分ける。5割ずつだ。
それに好きなだけエビを食えるぞ。」

 しかし、ババはベトナム戦争で戦死し、ガンプは帰国後、彼との約束を果たすべく、ババの故郷へ行きエビ漁船を買い漁師となります。ずっとエビは採れなかったけれど、ハリケーン「カルメン」によって他のエビ漁船は壊滅的な被害を受け、ハリケーンに耐えた船はガンプの船だけで、それ以後は大漁続きとなり、

「ババ=ガンプ社のエビは売れに売れた。持ち船も増えてジェニー号は12隻。」

となり、おまけに

「小隊長は僕の金をどこかのフルーツ会社(アップル社!)に投資してくれて
『一生食う金には困らない』と、お陰で一つ心配が減ったわけです。」

とますますお金持ちになりますが、

「ママは言ってた。『必要以上の金は、意味のない無駄な金』」

と、大半は色々なところに寄付をして、余生はやっと結ばれた幼なじみのジェニーとの間に生まれた息子を、ジェニーはエイズで先立ってしまったので、一人で育てることになります。
そして、最後に、

「僕には分からない。
 僕等には皆、運命(さだめ)があるのか、それとも風に乗ってたださまよってるのか。
 たぶん、その両方だろう。
 両方が同時に起こっている。」

 私自身、子供のころからあった、漠然とした海や外国へのあこがれから、東京水産大学に入学して、その後はお釈迦様の手のひらの上で、誰かに背中を押されているように走り回り、今、浜名湖のほとりでクルマエビの養殖で暮らしを立てています。今思うと、高校を卒業して以来、まったく先の事は考えず、「一期一会」、「見るまえに跳べ」で「今日まで生きてみました」といった感じです。
歳を重ね、家族を持つようになると、ガンプさんとは違って、一つ、また一つと心配事は増えていきますが、

「そして私は思っています。明日からもこうして生きてゆくんだろうと。」(1997.02.17)


桜エビの浜っ子丼

 昨年、1回だけですが初めてスキーを体験してけっこう面白く、今年は一式イチクッパアの道具もそろえ、1月25-26日に富士山の中腹にある「日本ランドHOWスキ-場」へ家族4人で行ってきました。日本ランド内にある「富士急ホテル」は1泊2食、スキー場の2日分の入場料込で大人9,000円、子供6,400円で日帰り2日分と同じくらいで楽しめたので、随分得した気分になりました。
 浜松西インターから東名高速に入り、途中、サクラエビで有名な由比も通るので、以前新聞記事を紹介した「桜エビアイス」を食べてみようと、富士川サービスエリアに立ち寄りました。しかし、そこにはなく(後で記事を読み返してみたら日本平パーキングエリアの間違いでした)、予定変更で少し早い昼食をとりました。
 子供達は例によって「お子様ランチ」、妻は「ラーメン」、私はせっかくだからと写真のような店長おすすめの「浜っ子丼」を食べてみました。
 炊き込みご飯の上に釜上げシラスがたっぷりのり、中央にシソの葉に釜上げのサクラエビがのっていて、茶色、白、緑、ピンクの色合いが美しく、白飯のうえにドーンとサクラエビをのせるだけではない工夫のあとがみられて好感がもてました。味もシラスの塩味がきいて、サクラエビをかみしめた時にひろがる海の香りとともに「いける!」と感じました。汁物はウドンがつき、漬物がついて900円、外食としてはまずまずリーズナブルと言えるでしょう。
 今度、こちら方面へ来るときには、桜エビアイスをぜひとも賞味してみたいものです。(1997.01.28)


自己紹介

 私は、静岡県の浜名湖のほとりの雄踏町という所でクルマエビの養殖を営んでいます。年齢は、44歳になりましたが、精神年齢はいまだに1980年を越えていないようです。仕事柄、エビを育てている間は養殖場から離れることができないのでインターネットでの世界の情報探検は私の大きな楽しみになりました。
とりあえず、私の趣味のようなクルマエビの養殖を中心とした身辺の自然に関する出来事やエビについてのFAQなどを発信していきます。
 ちなみに、ファイル名の"Penaeus"は、学名で言うところの属名"クルマエビ属"であります。また、ホームページの頭にある絵は、娘が描いてくれたものです。(1996.06.12)

とホームページを始めて半年あまりが経ちました。当初の計画とは裏腹に、仕事が忙しくなった9月からはなかなか更新する時間がとれずホームページの探方もお休み状態で、どうにかE-mailの確認だけは毎日やっているという状態が続きました。
エビに関わっている方々や興味を持っている方々からメールをいただくと新しい世界との繋がりもできてきてホームページを開いて良かったと思っています。
エビの出荷もほぼ終わり、これからは時間もたっぷりあるので、エビにこだわりつつも、何やこれや発信していきます。(1997.01.09)


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