畳についての雑学あれこれ
1997年4月27日更新

畳アドバイザー轄r井啓佐司商店代表 荒井将佳氏に専門家の立場から詳しく解説していただきましたので、紹介します。

*畳が生まれた経緯は、むしろのような草やわらで織られた「こも」を、折り畳んでしまったりするうちに、厚く重ねて布団のような寝具として使うように工夫され、それを包み閉じるためにふちに布が被せられたのではないかと推察されます。 飛鳥時代の法隆寺に伝わる、畳ベッドの御床(おんしょう)が現存する最古の物です。平安時代には今使われているような畳が布団ベッドのように使われ、寝具や座具として高貴な人々に愛用されたようで、大変な高級品だったようです。

貴重な絹や麻などの布地で身分をあらわす文様や彩りが定められ、畳の厚さや大きさにも影響が及び、以来江戸時代までその名残を留めました。
畳縁には紋縁と言う、格式を重んじ家紋を入れるものがあり、主には神聖な床の間に使われますが、格式の高い仏間や客間にも付けられ、お寺や神社に代表されるそれぞれの紋様が有ります。 宗派によって違いがあったり、皇室の関係に近い所や、宮家毎とか、武家の流れによっては、色々な家紋を入れる事が昔は至極当たり前で、身分制度の名残とステイタスシンボルでもありました。
ですから家紋の入った畳縁を踏む事は、御先祖や親の顔を踏むのと同じ事だとして、武家のたしなみ、商家の代継ぎをする者の大切な心得であった訳です。
また、紋縁以外にも<生物>動植物柄は多く使われましたので、生き物や草花を踏みつける事は、極力避けるべきで心やさしく静かに歩くべしという躾でした。

明治時代になってからは身分制度もなくなり、畳も庶民にも大分使われるようにはなりましたが、手作りの材料がほとんどでしたから、大正から昭和の始めごろまではまだ贅沢品で、客間や仏間と寝間程度にしか使われませんでした。

*そんなことからも解るように、縁は大切に取り扱う生活習慣が根付いていたのではないかと推察されますし、戦時中の物資不足時代のように、品質の悪い物しか生活用具には使えなかった時には、布地は貴重品ですから、紙布などが使われており、丈夫ではなかったので、踏む事はタブーでした。昔の縁生地は主に麻布や絹で染色も植物染めがほとんどで、色が飛びやすく実用的な丈夫さでも無かったものですから、丁寧に扱われていたようです。
現在使われている床の間用の高麗(こうらい)紋様には、大紋、中紋、小中紋、九条小紋(くじょうこもん)、散(ちらし)紋、大桐紋、大松紋、といった大きさ毎の区分に加えて、花型、七宝(しちほう)、菊水(立て枠)、唐草、松葉といった紋型毎と、白、黒、茶、鶯、納戸(紺)、日光(黄赤)といった色による区分と、材料の品質では、綿、スフと、絹うんげん、大和錦、などの絹織物もあります。そして別注文で作る寺紋や家紋のものが有ります。
なお、普通の畳縁は光輝縁(こうきべり)と言って、主に細幅織物で作られ材料としては、綿糸、人絹糸、ポリエチレン、ポリプロピレン、ナイロン、テトロンなどと、金糸を織り込む事も有り、お座敷用の紋縁も実用向きに作られたものが有ります。 また実に様々な紋様と色合いと織り方の畳縁が、老若男女に若向きのフレッシュなパステルカラーから、料理屋や旅館向きまで、何千種類と商品化されてファッションの流行も追いかけるほどになってます。

*お茶の世界で縁を踏んではいけないとされているのは、立居振舞の動きに合理性と美しさを探求しており、歩く歩幅もおおよそで決まっているからのようです。
礼儀作法もお道具の寸法も、数寄屋建築の室内の内法寸法も、すべて手織の畳表の目はばの五分目の曲尺寸法が基準になっているようです。
これは千利休が打ち立てた「曲(かね)割りの法」という宇宙世界を理論的に寸法で割り切るようにしたことから出ているようです。

*お茶室は、秘密の相談事にも使われ、敵が縁の下に忍び込み、畳の合わせ目の縁がついた所を狙って刃物を突き上げたり、踏み込んで刀を振りまわしたりしても命を狙われにくいようにという考えからのようです。
畳の材料と厚みは、例え槍で突いても突き通す事は出来ませんから、弓矢の的受けにも使われています。

高床式の家では、畳の間から隙間風が吹き上げると冬の寒さがこたえたでしょう。そこにも畳の合わせ目の部分をさける習慣ができたと考えられます。

*畳は材料が柔らかい植物で構成されているので、角や隅の部分が弱くて壊れやすいものですから、余り強く意識的に踏み込んだりしない様にと言う、取り扱い注意といたわりの気持ちもあったと言えます。室町時代からは一部で部屋全体に畳を敷き詰めるようになりました。角や縁の弱い部分が畳を合わせることにより無くなり、平らで安全で丈夫な床材になったといえます。


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